大井川通信

大井川あたりの事ども

氏神とキビタキ

縁があって、とある氏神のお祭りに参列した。社は、小山の頂上にあって、林で囲まれた野外の境内でお祭りはとり行われた。大きな神社からきた狩衣の神職が、祝詞をあげたり、お祓いをしたりする。その間、参列者は、若い巫女さんの指示で、頭をさげたり、玉ぐしを奉納したり。

気がつくと、林からは、キビタキのさえずりがずっと聞こえている。はじめはヒヨドリと勘違いしたくらい、にぎやかな声だ。キビタキも、お祭りにあわせてめずらしく華やいだ気分になっているのだろうか。

キビタキは、ツバメからひと月ばかり遅れて、南国からやってくる。ツバメとはちがい、住まいは暗い林のなかだが、この地方では、ある程度の規模の林では、めずらしくはない鳥だ。ただし、黒とオレンジの目を奪うような可憐な姿を目にする機会は多くはない。

何より好きなのは、そのさえずりだ。歌の名手の鳥は、手慣れた節回しを上手に繰り返すものだが、キビタキはまるで違う。節回しは安定せずに、たどたどしく、寂しげに鳴く。ピッピ、ピッピ、ピピヨ、ピッピキ、ピッピキ、ピピキ・・・

幼い子どもの笛の練習、というのが、一番しっくりくるイメージだ。初夏の林には、キビタキの笛の手習いがよく似合っている。

 

『目羅博士』 江戸川乱歩 1931

読書会で乱歩の作品を読んでいる時、隣の席の若い女性の参加者が、『目羅博士』が好きだと言った。『目羅博士』は、かつて僕も、乱歩の短編の中で一番好きだった。読み直してみると、少しも色あせてなくて、嬉しかった。ごく短いものだが、構成も内容も文体も完璧だ。

乱歩自身と思しき作家が、閉園間際の動物園で、奇妙な若者に出会う。彼は器用に猿に自分のまねをさせるのだが、夜の不忍の池を見下ろしながら、彼から打ち明け話を聞くことになる。彼が、銀座のビルで管理人の仕事をしていた時、裏通りに面したビルの部屋で連続で自殺者がでる。それは、裏通りを挟んで背中合わせのビルがまったくの相似形という偶然を利用した、眼科医の老人目羅博士の犯罪だった。それを見抜いた若者は、目羅博士の裏をかこうと試みる。

乱歩の作品が古びないのは、それが人間の存在の普遍的な在り方をつかんでいるからだと思う。それを極端の形で提示するから、一見おどろおどろしい見世物に見えるのだが、人間理解の芯を外していないので、いつまでも新鮮さを失わないのだ。

目羅博士では、いうまでもなく、それは「模倣」だが、それとセットになった「競争」の要素も加わっている。人間は他者への同一化を求めると同時に、差異化を求めざるをえない存在だ。「模倣」欲望を利用した犯罪をめぐって、目羅博士と若者との「競い合い」が小説の山場となっている。そこに「月光の魔力」という古来の要素と、「都会の峡谷」という近代の要素とが、贅沢な舞台装置として加わるのだからたまらない。

目羅博士のキャラクターも、後の少年探偵団もので暗躍する怪人の原型のようだ。

 

 

『五日市憲法』 新井勝紘 2018

気づくと、憲法記念日だ。『五日市憲法』に関する新刊を買っていたので、読み通してみた。面白かった。五日市憲法については、学校で習った記憶がある。今では、小学校の社会科の教科書にも取り上げられている。

著者は、東京国分寺東京経済大学で、色川大吉ゼミに学んだ歴史家である。1968年にゼミの活動で五日市の土蔵調査に参加して、五日市憲法草案(1881)を発見し、卒論のテーマとする。若い著者がわずかな手がかりから、起草者の千葉卓三郎(1852-1883)の足跡をたどるプロセスはスリリングだ。僕は、研究とは程遠いが、地元を歩き、お年寄りの語りから、過去を手繰り寄せる試みをしているので、とても共感できた。

五日市憲法自体は、国会期成同盟という組織からの草案作成の呼びかけ(1880)に応じたものであり、東北出身の若き俊英千葉卓三郎が、知的な放浪の果てに、五日市の少数の有志との関わりの中で起草したことが明らかにされる。

著者は、五日市における民主運動の背景と伏流を強調するが、やはり、下からの「民衆憲法」というイメージとは背反する真相だ。そういうイメージ自体が、善かれ悪しかれ、1968年という発見年に象徴される一つの時代のイデオロギー内部のものであるように思われる。

大学時代、自由民権運動100年記念の集会で、色川大吉の話を聞いたことがある。東京経済大学は隣町にあったので、自分の大学でもないのによく出入りしていた。恩師の今村仁司先生のゼミにも参加させていただいて、思い出深い。「三多摩」人のアイデンティティを捨てきれない自分には、どこか懐かしい本だった。

こんな夢をみた(転売屋)

近ごろは、早い時間に睡魔に襲われて、客間のソファーで寝てしまう。夜半に置きだして、がさがさ活動する。今がそう。よくない傾向だ。見たばかりの夢。

誰かの後について、大型安売り店の中をぐるぐる歩き回っている。自分以外にも別のメンバーがいたのだが、誰かは思い出せない。目ぼしい商品を大量にかって、それを転売してもうけようというグループのようだった。

リーダーが目を付けたのは、セーターと大きなタオルの組み合わせだった。タオルは、表裏で色が違い、表に「男」、裏に「女」という文字が大きく描かれていた。今思えば、使い道がなさそうだが、その時はなかなかいいと思った。セットで恋人同士のプレゼント用に需要があるという判断だった。ただ、セーターにはサイズがある。売れ残りのことが、頭をかすめた。

次に、掃除機を何台も集めて、レジを通過する。やはりレジでは少しコソコソするみたいだ。レジの女性は、先日のオリンピックのカーリングの美人選手だったが、何も言われずに購入できて、ほっとする。リーダーが電話をして、転売先と話を決めたようだ。いつもは大型安売り店で仕入れた商品は嫌がる人だが、とうれしそうだ。

ただ、僕は、こうして転売の心配をしながら活動するのが嫌になっていた。もうこの仕事はやめようと心に決めたところで、夢からさめた。(2018.5.2)


『わかりあえないことから』 平田オリザ 2012

読書会の課題図書として再読。出版当時、すぐに読んでいる。それまでも、著者の本は、演劇や演劇史、演出の入門書で重宝していたので、これも抵抗なく面白く読んだ記憶がある。しかし、今回は近作の『下り坂をそろそろと下る』に大きなほころびを見つけてしまった後なので、その観点から読みなおすと、すでに亀裂の前兆をあちこちに見出すことができた。

ただし、納得のいく主張が多いのはまちがいない。日本社会の「わかりあう文化」「察しあう文化」の内部での「会話」とはちがう、価値観の異なる者同士の「対話」の文化、「説明しあう文化」へと舵を切らざるを得ないこと。しかし、説明とは虚しいことであり、この空虚さに耐える必要があること。(ちなみに、このまっとうな指摘が、『下り坂』では、経済成長が止まる、東アジア唯一の先進国でなくなる等の政治的、経済的要因からの「寂しさ」に向き合うべきという通俗的な話に後退してしまっている)

また、「会話」ではなく、「対話」においてこそ、意味伝達とは関係のない無駄な言葉の含まれる割合(冗長率)が高くなる、というのは新鮮で、とても重要な指摘だと思う。

しかしながら、著作全体としてみると、主張の一貫性や厳密性を欠いて、矛盾や言いっ放しも散見されるのは、なぜだろうか。著者の軸足が定まっていない、というのが大きな原因だろう。

著者は、現代口語演劇という一流派の演出家であり劇団の代表者である。その実践からの発言はさすがに鋭い。しかしそれとともに、演劇ワークショップや演劇教育の立場からの発言もあれば、演劇人や芸術家を代表するかのような発言もある。さらには、コミュニケーション教育の専門家を名乗る発言が多くなり、しまいには、日本社会や日本文化の行く末を論じる評論家になってしまう。

たとえば、演劇と通常のコミュニケーションは、素人目にも、まるで違ったものだ。あらかじめ決められた台詞で、演出家の指示通りに演じるという決定論が支配する演劇の世界と、自分の言葉を自由に使い、展開が不透明であるコミュニケーションの時空とは、まったく異質なはずである。この本には、演劇の専門家が、なぜコミュニケーションの専門家になりうるのかという部分への説明がない。けむに巻かれたような気がする理由は、こんなところにある。

しかし、さらに考えると、歴史の浅い日本の演劇界で、実作、理論、啓蒙、普及、政治等、一人で何役もこなさざるを得ない著者の「不幸」が、著作の内容に反映されているのかもしれない.。軸足のブレは状況に強いられたものなのだ。読書会の議論でも、著者の孤軍奮闘に共感する意見が多かった。


「まつのひと」 鈴木淳 2018(第13回津屋崎現代美術展)

旧玉乃井旅館での現代美術展を、黄金週間で帰省中の長男とのぞいてみる。駆け足で観るなかで、鈴木淳さんの作品が心をとらえた。

鈴木さんは以前、神社を舞台にしたプロジェクトで、石柱などに刻まれた寄進者の名前から、その人のことを調べて、その場に掲示するという作品を作っている。僕は、寺社などで古い石造物を見るのが好きだが、そこに名を刻まれた一人一人はどうしても陰に隠れてしまう。その名前の主に光を当てるのは面白いと思った。

狭い和室の壁際には、たくさんの古い写真が並べられている。おそらく玉乃井の関係のもののコピーなのだろうが、本物に見える。どの写真も、(おそらく任意の)誰かの輪郭がきれいに切り抜かれている。写真の一部を切り取って捨てるということは、背後に特別な愛憎が感じられて、ぎょっとするものだ。だから、古い集合写真でまどろむ人々の中で、切り抜かれてすべての情報を欠落した人物の方が、存在感を際立たせている。

その暗い欠落の一つ一つに、鈴木さんは、たんねんに松葉を立てている。その茶色く枯れた松葉が、ちょうど二本足でたつ人間に見えるのだ。それぞれ大きさも形も微妙に違う「まつのひと」は、写真からむっくりと起き出した、その人自身にみえる。痩せさらばえた身体を傾け、ねじり、叫び、いっせいに時の経過の痛みを訴えているようにも見える。

ふと天井に目をやると、そこに縦横に張りわたされた紐には、無数の枯れた松葉が、いや「まつのひと」が、まるで魂を抜かれたむくろのように、ずらっと吊るされているのだ。表情を失った彼らは、具体的な記憶の痛みから解き放たれた、天上界の住人だろうか。

部屋の床の間には、松の花のカラー写真が拡大されて張り出されている。受粉を待つ花の姿は、毒々しくグロテスクでさえある。花の周囲には、青々と脂ぎった松葉が、ぎっしりと生えそろっている。誕生と老い、生と死の鮮やかな対照を示していて、部屋に身をひそめる「まつのひと」の亡き骸たちをまるで荘厳するかのようだ。

旧玉乃井旅館の建物は、建築後百年以上の間、目の前に広がる玄界灘からの荒波や強い海風に耐え忍んできた。玄界灘の海岸線には、数十キロにわたり、人工的に松林が作られて、荒海から人々の生活を守っている。その松林も、近年は松くい虫の被害であちこちで松枯れが目立つようになった。こうした松をめぐる生命の攻防の場所に、「まつのひと」の生と死の物語はいっそうふさわしく思える。

  

石炭ケーブルカー

「よいことを聞かれた」と、ハツヨさんの口ぶりがいっそう元気になる。僕がふと思いついて、石炭を運ぶケーブルカーのことを知らないか尋ねてみたときだ。

隣村からの往還(道)の上を、ケーブルカーが通っていて、その車輪がぐるぐる回っていたそうだ。石炭が落ちることがあって、頭をケガする人もいた。だからハツヨさんが子どもの頃は、ケーブルの下を走って通り抜けたという。歯が二本の下駄ばきだから、走るのも大変だった。

町史で調べると、この空中ケーブルは、池田炭鉱から駅までの四キロメートル半を結んでいた。貨車一つに180キログラムの石炭を積み、時速6キロ余りの速度で運搬するという、地方には珍しい大仕掛けのものだった。大正8年(1919年)に開通して、昭和11年(1936年)まで操業していたというから、当時5歳のハツヨさんは、のどかな村に突如鉄塔が並び、次々に石炭を積んだ貨車が吊るされていく姿に、きっと目を見張ったことだろう。23歳で他県にお嫁に行く頃まで、村のなじみの風景だったはずだ。

いたずらで石炭を落とす人や、途中で盗む人もいた。そんなときは駅に着く前に、石炭がのうなってしまった、とハツヨさんはさもおかしそうに話してくれた。

 

盆うた

日当たりのいい庭で、みんなで話を聞いていると、103歳のハツヨさんは突然、思い出したという風に手をたたいて、ゆっくりと盆おどりの歌をうたいだす。

ハツヨさんは、村では歌姫と呼ばれて、盆踊りの歌い手としてかかせなかったそうだ。他の娘さんたちでは、歌声を十分響かせることができなかったらしい。

 

盆くりゃーうーれーし 正月くりゃーうーれーし
えーうれしーの
花はーどーこーにさーくー どこーにさーくー

 

歌声はおのずから、遠く昭和の初めの盆踊りの夜のにぎわいへと帰っていく。

 

高槻のこずえにありて

鳥見を始める前は、短歌や俳句で名前だけを先に覚えてしまい、実物を知らない鳥がけっこういた。ホオジロもそのひとつ。

「高槻のこずえにありて頬白のさへづる春となりにけるかも」

島木赤彦(1876-1926)のこの歌は、春の訪れの喜びを歌って鮮烈だ。高槻(たかつき)は、高木のケヤキのこと。ケヤキは、武蔵野ではなじみのある大木だし、今の自宅の玄関にも植えてある。

ホオジロ(頬白)は、林の周辺の草地などでよく見かけ、スズメより尾が長く、少し大きくみえる。身体はスズメのような茶色だが、オスは頭に黒と白のマスクをかぶった感じで、メスはマスクの色が薄い。さえずりでは、とても早口で長めのフレーズを繰り返す。チョッピーチリチョピーツクという風だが、「一筆啓上仕り候」という伝来の聞きなしもある。さえずりの時も電線に止まったり、木々の枝の中に紛れたりしていることが多く、この有名な歌のように、高い木のこずえでさえずる姿には、意外に出会うことは少ない。

それが今朝は、姿のよい大きな松の木のてっぺんで、天を仰いで鳴くホオジロを見たのだ。季節も早春ではなく春たけなわの4月だし、ケヤキのこずえでもなかったが、それでもとてもうれしかった。

 

君はハルゼミを知っているか

セミは、郊外育ちの昆虫好きの元少年にとって、一番身近な長年の友人である。だから、セミに関するネタは山ほどある。

昔の東京では、アブラゼミが主力だったが、今ではミンミンゼミも平気で街中で鳴くこと。西日本では、クマゼミの天下だが、生息域が東京に迫っていること。ミンミンゼミを聞かない九州では、クマゼミをミンミンゼミと取り違えている人がいること。クマゼミの大声は、午前中でピタリとやむこと。ヒグラシには、白い泡みたいなセミヤドリガの寄生が多いこと。

今住む地方では、梅雨の時期にニイニイゼミが鳴き始め、梅雨が終わる7月中旬にクマゼミが鳴きだして、アブラゼミがそれにまじる。8月になると、ツクツクボウシが鳴き始めて、それは10月初旬まで聞くことができる。

ところが、昨年初めてハルゼミというものの存在に気づいた。これは松林にしか住まない種類で、それまで身近に松林がなかったからだ。そのハルゼミが今年も松林で鳴き始めた。図鑑では「日照性」「合唱性」という言葉で生態を説明しているが、明るく日が照ると鳴き始める。また一匹が鳴きはじめると、それにあわせて周囲が鳴きだすのは、カエルの合唱のようだ。声も、他のセミのような機械的な力強さはなくて、生身のカエルっぽく、ゲー、ゲー、ゲーとゆっくり鳴いて、短めに終わってしまう。初めに気づいた時は、本当にカエルと思ったほどだ。

今年は、偶然姿を見つけることもできた。幹ではなく、細く横に伸びる枝に止まっている。胴が細長く、そこからあまり羽が飛び出していない。その胴を細かく収縮させて鳴く声は、近くで聞くと意外に大きい。黒っぽいアブみたいで、セミらしくはない。気をつけてみないと、とてもわからないだろう。

姿を見たとなると、次に見つけたいのは抜け殻だ。近辺を探し回るが見当たらない。このシーズンにはぜひ見つけたいと思う。