大井川通信

大井川あたりの事ども

鳥たちの「春活」

通勤の道の電柱の上に、木の小枝でまるまるとくみ上げた巣に、さかんにカササギが出入りしている。電力会社に撤去されないことを祈ろう。

小さなカササギみたいな優美な姿のセグロセキレイが、田んぼのあぜ道でふしぎな振る舞いをしている。オスがきれいに黒白に塗り分けられた翼を左右に広げて、ジグザグにメスに迫っていく。するとメスは、長い尾羽をオスのほうにピンと突き出す。恋愛の成立なのか、ふわっとオスがメスにおおいかぶさる。

林の脇の草むらで、ウズラみたいな地味な鳥が二羽で仲良く何かをついばんでいる。コジュケイだ。チョットコイ、チョットコイという、あのけたたましい大きな声を出す鳥とは思えない。キジバトのようなつがいの様子が微笑ましい。

海辺でも、林でも、冬鳥の姿が消えて、とにかくツバメが目立つようになった。ツグミシロハラジョウビタキも、いつの間にかいなくなった。林の中から、ウグイスとガビチョウの競い合うようなさえずりが聞こえる。ただ、今一瞬、ピッ、ピヨと、こころもとなく届いたのは、帰ってきたばかりの、この春初めてきくキビタキの声ではないだろうか。

『木馬は廻る』 江戸川乱歩 1926

読書会で、この作品の入った短編集(創元推理文庫『人でなしの恋』)を読む。

浅草木馬館(メリーゴーランド)の初老のラッパ吹きが主人公。貧しく気苦労の多い家庭生活と、木馬館での仕事に打ち込む自負心。同僚の切符切りの娘への愛情にひと時の慰安を得ている。若い男が娘に渡した恋文で、彼の日常は嫉妬にかき乱されるが、実はそれが刑事に追われたスリがやむなく手放した給料袋だった、という部分だけが推理小説仕立てだ。給料袋の大金を手に入れて逡巡するものの、最後はやけになって、娘らとともに回転木馬に乗り込んでひと騒ぎする。庶民の哀歓が密度濃く描かれていて、他の作品と一線を画している。なお、乱歩は、この作品の5年後に、朔太郎といっしょに浅草の木馬に乗ったそうだ。

短編集では、多くの作品で、主人公がこの世を「退屈」であると感じていて、そこから強い「刺激」を求める、という筋立てになっている。そして自ら求めた「刺激」が、『一人二役』のように格好の娯楽になる場合もあれば、『覆面の舞踏者』のように悲劇におわる場合もある。この時代、探偵小説自体が、「退屈」な読者に、手を変え品を変えて新しい「刺激」を提供するものとして登場したのだろう。

ところで、この「退屈」という感情がベースの時代は、果たして今につながっているのだろうか。ごく近年、ネットへの接続によって「刺激」が常態であり「退屈」がむしろ貴重である時代へと大きく変質してしまった気がするのだが。

 

『下り坂をそろそろと下る』 平田オリザ 2016

正直なところ、後味のわるい本だった。著者の本は、今までに何冊か読んできて、面白く読めた印象があったので、この読後感は自分でも意外だった。しかし、この後味のわるさは、この本の中心にドカッとすわっている。それをさけるわけにはいかない。

簡単にいおう。著者自身は、いたって意気軒昂で、少しも「下り坂」を降りてなんかいないのだ。おそらく本当に下り坂にさしかかった人間の気持ちなど、まったくわかってはいないだろう。地方都市では、「日本を代表する演出家」として街の再生にかかわる方法と実績をもっている。日本全体の方向性についても、「文化政策」や「文化資本」の専門家として、確かな展望をもっている。そこでは、「本物の芸術」や「演劇」の力はますます重要になるそうだ。被災地の復興でも、東アジアの軋轢の解消でも、演劇の役割と著者の活躍が語られる。下り坂どころではない、バラ色の未来なのだ。

では、「下り坂」とは何か。著者の示す方向に従わない、地方、人々、国に対する、あんたたちはどのみち落ち目なんだよ、という悪罵や叱咤としてしか機能していない。とってつけたように、私たちは「下り坂」の「寂しさ」に耐えないといけない、と宣言するけれども、これからの社会で中心的な役割を担うという確信を抱いた著者の、どこにそんな「寂しさ」があるというのだろう。

だから、著者がとらえる「日本の寂しさ」というものが、おそろしく表面的な、お粗末なものになってしまうのだ。うそと思われるかもしれないが、それは次の三つでしかない。辛辣に言えば、この中身の無さを糊塗するために、しつこく司馬遼太郎が引用されている気がする。①「もはや日本は、工業立国ではない」②「もはや、日本は成長社会ではない」③「もはやこの国は、アジア唯一の先進国ではない」

文化による街おこしの成功事例を紹介して、文化による国づくりを提言した本として読めば、多少荒さは気になるが、べつだん間違ったことは言っていないと思う。学ぶべき点も多いだろう。しかし、批評文としてみた場合、致命的なほど自己批評を欠いている。演劇の徹底したプロである平田オリザにもかかわらず、である。つくづく言葉は魔物だと思う。

 

訪問とお参り

大学卒業後、初めに就職した会社でのこと。今なら「朝活」とでもいうのだろうか、支店長が部下を集めて、ホテルの一室で朝食を食べながら、勉強会のようなもの開いていた。営業のたたき上げだった支店長は、自分の体験を交えて面白おかしく営業の「極意」を話した。

飛び込みの営業は敷居が高いものだけれども、相手先の会社に身内や知人が勤めているというだけで、自分は何の関係もないはずなのに、とたんに訪問しやすくなる。そんな話が、妙に印象に残っている。だから、少しでも縁のあるところに率先して訪問しろ、という話だったのかもしれない。

今回、Hさんの生まれた村を歩き回ったときも、出身の大先輩を一人知っているというだけで、すっかり親戚気取りで大きな顔をして、土地の人に話しかけることができた。なじみの土地になると、顔見知りが多くなるから、ますます訪問しやすくなる。

ところで、その土地でもっとも位階が高いのは、氏神を筆頭とする神仏だろう。だから、知り合いがまるでいない土地でも、その神仏の名を告げて「お参りさせてください」と暗黙の関係を誇示しさえすれば、土地の人からおろそかにされることはないのだ。 

ミロク山でアサギマダラに出会う

「ひさの」で知り合った大正3年生まれのHさんの生まれ育った村を再訪。

ミロク山の急な山道を息を切らしながら登ると、その先に大きな建物ぐらいの岩が露出していた。岩の前面には地蔵がならんでおり、少しくぼんだところに、江戸時代の元号の刻まれた古い石のホコラがすえられている。長く村人の信仰を集めてきたオダイシサマというのは、ここだろう。Hさんも、若いころには、お参りしたはずだ。旧姓を告げて、Hさんの健康を祈る。すると、山道の脇の白い花に、大柄な蝶が舞い降りてきたのに気づく。白黒のレース模様に赤みの入った羽根のアサギマダラだ。数千キロに及ぶ渡りの途中に出会うのは、この春初めてで、うれしくなる。

山頂はもう少し上なのだが、大岩の脇の斜面をロープを頼りによじのぼらないといけない。断念して降りてくる。集落まで戻ると、小さな土地で畑仕事をしているお年寄りがいる。声をかけると、Hさんのご実家の隣家のお嫁さんで、Hさんのこともご存じだった。ご先祖や村のことなど、興にのったのか、畑の隅の草花の中にちょこんと正座をして話してくださる。ご自分は都会の方からお嫁にきて、はじめはずいぶん淋しい思いをしたそうだ。

村社の境内には、ミロク山の石を祭壇のように置き集めた場所がある。それは、ただしくミロク山の方を向いている。今でも、そこで春に村の「五軒当番」が担当をしてオコモリ(お祭り)をしているそうだ。参拝しやすい場所に遥拝所を作るというのは、クロスミ様も同じなので、少なくとも近隣ではごく普通の発想なのだろう。

 

『壁』 安部公房 1951

たぶん高校生の頃読んで、惹きつけられた作品。およそ40ぶりに再読しても、古びた印象はなかった。なにより、終戦後5、6年という時期に、『飢餓同盟』よりも早く書かれていたという事実に驚く。

同時代を舞台にしていながら、近未来的というか、無時間的だ。壊滅的な戦争の破壊も、それに起因する不条理や無力感も描かれていない。戦前からの共同性の呪縛も、それに基づく湿っぽい悲劇、貧困や差別もにおわされていない。あらたな希望であったはずの、運動や革命の理念による高揚や、集団の力のおぞましさも触れられていない。つまり、『飢餓同盟』の世界には、多かれ少なかれ雪崩れ込んでいるところの、同時代の諸要素が、すっかり遮断されているのだ。

書かれているのは、個人というものに内在する、普遍的なリアリティだ。「S・カルマ氏の犯罪」では、名前の逃亡をきっかけにして、自分が存在すること自体のとらえがたさや不均衡が、他者とのぎくしゃくしたやり取りとともに、自分の内で成長する「荒野」や「壁」という卓抜な比喩でとらえられる。「バベルの塔の狸」では、個人の想像や構想の世界の肥大化を、奇怪な「とらぬ狸」たちの住む「バベルの塔」によって、ユーモラスに描く。「赤い繭」の諸短編には、同時代とのつながりがうかがえるものの、より純度の高い寓話として結晶化されている。

熱く騒がしい世相の中で、それに媚びることなく、このひんやりとした感触の物語を定着させる才能は、今から振り返ると、なおさら見事に思える。この簡潔な寓話を基準としてみると、後年の饒舌な『箱男』などはやはり物足りない。

 

大井川歩きのこと

お年寄りは時間と空間の見当を失いがちになる、という村瀬孝生さんの言葉を聞いてから、ずっとそのことが気になっている。

僕が、大井川歩きのルールを決めたのは、4年前のことだ。自宅から、歩いて帰ってくることのできる範囲を、特別な自分のフィールドとする。もちろん、仕事や生活では、クルマや電車は使うわけだし、それは否定しない。ただ、大井川歩きという活動においては、実際に歩いて帰る、という振る舞いをしばりとする。フィールド内だからといって、5分で車で乗り付けたりしない。2キロ先の場所には、往復2時間かけて歩いて訪ねる。4、5キロ先だと、半日以上かかるから、体力的にもそのあたりが限界になる。

そして、その狭い範囲内については、自分が責任をもつ。山や川といった地形も、そこに住む鳥や動物や植物も、寺社や石仏や古い集落に象徴される過去の人々の営みも、現在の人々の暮らしも、ひとしなみに引き受ける。少なくとも、その気概を持つ。実際のところ、親しみをもって、他人事としない、という程度だけれども。

実際にやってみると、そこが少しも狭くない、ということに気付いた。道ばたで出会って話し込んだ人から、驚くような事実を聞くことができたりもした。土地には多様な自然の営みと、古代から現代にいたる人々の歴史が隠されていた。かつて村落共同体で一生を暮らした人々にとって、歩ける範囲というのが、ほとんど世界のすべてだったはずだ。今では、大井川歩きが、ささやかなライフワークになるという予感がしている。

ところで、村瀬さんの話を聞いて、自分のこのふるまいが、生活拠点を中心とする空間と時間を、具体的に血肉化したいという無意識の欲望に支えられていることに気付いた。中年をすぎて老いを意識するなかで、現代の生活であいまいとなりがちな空間と時間に対する見当識を安定化させたい、という防御本能が働いているのだろう。

たとえば、このブログでも、無意識のうちに作品には必ず年号を振り、作者の生年や没年を書き込んだりしてしまう。どうやら、そのつど時間軸を押さえずにはいられないようだ。

霞が関ビル誕生50年

日本で初めて高さ100メートルを超えた「霞が関ビル」が、この4月で完成から50年を迎えたそうだ。僕がちょうど小学校に入学した年の完成になるが、それならちょうど記憶にあう。

日本で初めての高層ビルのことは、当時たいへんな話題になっていた。東京郊外の国立の街は碁盤の目のような区画だから、南に伸びる通学路を歩くと、東西に走る道との交差点をいくつか渡らないといけない。その一つから西の方角に顔を向けると、道の突き当りに白い大きなビルが見えた。隣町のビルだったけれど、僕は、それを霞が関ビルと思い込んで、毎日見るのを楽しみにしていたのだ。方角は正しいが、数十キロメートル先にある本物が見えるはずはないのに。

なぜ、そんなことを覚えているのだろうか。多分、家族や友達に話して、笑われて恥ずかしい思いをしたか、真相を知ってがっかりしたためだろう。失敗談は、手術中うっかり置き忘れたメスのように体内に残り続ける。

やはり、小学校の低学年の頃、市議会議員選挙で町中が騒然としているとき、宣伝カーを追いかけて候補者の調査をしたことがある。それを得意になって家族にひろうしたのだが、「おだたら・はりく」という名前に、親がひっかかった。

宣伝カーの看板の横書きの平仮名を、逆に読んでしまったのだ。正解は、くりはら・ただお。おそらく、その後何度も家族に笑い話として取り上げられたのだと思う。いまでは、もちろん当時の市議会議員の名前は一人も記憶に残っていない。ただし、「おだたら・はりく」の名前だけは、僕は今後もずっと忘れることはないだろう。

 

ミロク山でサシバが舞う

「ひさの」に入居するHさんからお話をうかがった。Hさんは、大正三年生まれの103歳。Hさんが生まれ育ったのは、数キロメートル離れた近隣の旧村だ。話を聞く前にも、予習として江戸時代の地理書に目を通したり、少し歩いてみたりしていたのだが、実際にお会いすると、土地への思い入れが強くなる。

里山だった丘には、住宅街が切り開かれ、小学校が建っている。田んぼには、ショッピングモールが隣接し、村の中心には、新しい車道が横切っている。それでも、神社や古い屋敷や地図を手掛かりに、五感を開き、かつての村を二重写しにするようにして、ゆっくり歩く。

昔温泉があったという湯ノ浦という場所を、地図と地形をたよりに探す。Hさんの若いころにも、田んぼの脇で、冬には水が温かかったという。造成地のすぐ下に、炭鉱跡で見かけるような赤水が出ている水路があって、そのあたりではないかと推理する。

ミロク山は、村の正面からは、きれいな逆三角形のシルエットが美しい。やはり信仰の対象となる山は、姿形も重要なのだろう。山の脇を上っていくと、人気のない中腹に、神池という名のため池がある。上空では、二羽のスマートなタカが、大きく円を描いて飛びながら、何度も鋭い鳴き声を谷に響かせている。百年前からの、いやもっとずっと以前からの景色のような気がした。

僕の聞きなしでは、「きっ、うーい」「きっ、うーい」、耳にしたことのない特徴のある鳴き声だ。帰ってから調べると、サシバだった。秋の渡りで有名なタカだが、もっともよく声を出す種類らしい。猛禽類の特定は難しいので、それができたのは嬉しかった。

 

『だるまちゃんとかまどんちゃん』 加古里子 2018

加古里子(1926-)が50年にわたって書き継いでいるだるまちゃんシリーズの最新作3冊の内の一つ。僕自身の幼児期にはまだ書かれていなかったが、息子たち二人はまちがいなくお世話になった。

だるまちゃんの不思議な友達は、火の守り神「かまど神」をモチーフにしたかまどんちゃん。だるまちゃんは、隣町の商店街のうらの空き地で、女の子たちのままごと遊びにいれてもらう。「ござ」のすみっこに座ったかまどんちゃんに美味しい食べ物をつくってもらうが、その時「なべやさん」から火事が出て、かまどんちゃんの活躍で火を消すことができた。大人たちがお礼を言おうとすると、かまどんちゃんは恥ずかしいのか隠れてしまう。

傘屋や染物屋や鍋屋が並ぶ商店街の様子も、その空き地にゴザを敷いてママゴトをする女の子たちの姿も、戦前からせいぜい昭和30年代くらいまでの時代を反映しているようだ。意図してそうしているのではないだろうが、90歳を超えた加古さんは、現代の読み手の幼児たちの実際の生活などおかまいなしに、自分の感覚で、だるまちゃんの世界を造形する。それでいいのだと思うし、それがすがすがしくもある。

僕の同世代で早世したコラムニストのナンシー関(1962-2002)が、晩年、といってもまだ30代だったけれども、だいたいこんな事を言っていたのが印象に残っている。以前は、自分が感じたり考えたりすることが、時代の中心にあることを疑っていなかったが、それがズレてきたのを感じると。

時間の感覚がズレていく、というのは(村瀬孝生さんがお年寄りの呆けに関して言う通りに)人間にとってごく自然な過程なのだと思う。僕が書くものも、若い人が読めば、ずいぶんと古臭い文体や感覚や話題に思われるだろう。しかし、最新、最先端の時間だけがすばらしいわけでも、それだけで世界が成り立っているわけでもない。自分がもつ時間を手探りで押し広げていく以外に、人が生きる術はないのだと思う。