大井川通信

大井川あたりの事ども

『下り坂をそろそろと下る』 平田オリザ 2016

正直なところ、後味のわるい本だった。著者の本は、今までに何冊か読んできて、面白く読めた印象があったので、この読後感は自分でも意外だった。しかし、この後味のわるさは、この本の中心にドカッとすわっている。それをさけるわけにはいかない。

簡単にいおう。著者自身は、いたって意気軒昂で、少しも「下り坂」を降りてなんかいないのだ。おそらく本当に下り坂にさしかかった人間の気持ちなど、まったくわかってはいないだろう。地方都市では、「日本を代表する演出家」として街の再生にかかわる方法と実績をもっている。日本全体の方向性についても、「文化政策」や「文化資本」の専門家として、確かな展望をもっている。そこでは、「本物の芸術」や「演劇」の力はますます重要になるそうだ。被災地の復興でも、東アジアの軋轢の解消でも、演劇の役割と著者の活躍が語られる。下り坂どころではない、バラ色の未来なのだ。

では、「下り坂」とは何か。著者の示す方向に従わない、地方、人々、国に対する、あんたたちはどのみち落ち目なんだよ、という悪罵や叱咤としてしか機能していない。とってつけたように、私たちは「下り坂」の「寂しさ」に耐えないといけない、と宣言するけれども、これからの社会で中心的な役割を担うという確信を抱いた著者の、どこにそんな「寂しさ」があるというのだろう。

だから、著者がとらえる「日本の寂しさ」というものが、おそろしく表面的な、お粗末なものになってしまうのだ。うそと思われるかもしれないが、それは次の三つでしかない。辛辣に言えば、この中身の無さを糊塗するために、しつこく司馬遼太郎が引用されている気がする。①「もはや日本は、工業立国ではない」②「もはや、日本は成長社会ではない」③「もはやこの国は、アジア唯一の先進国ではない」

文化による街おこしの成功事例を紹介して、文化による国づくりを提言した本として読めば、多少荒さは気になるが、べつだん間違ったことは言っていないと思う。学ぶべき点も多いだろう。しかし、批評文としてみた場合、致命的なほど自己批評を欠いている。演劇の徹底したプロである平田オリザにもかかわらず、である。つくづく言葉は魔物だと思う。