大井川通信

大井川あたりの事ども

安部重郎氏のこと(祖母の思い出)

大井村本村の住人安部重郎氏(1899-1982)は、母親の33回忌(1971)に親族に話した内容を、「我が家我が父母」という手記にして残している。現在は東京の田無(田村隆一の詩「保谷」の隣町)に住む重郎氏の娘さんからお借りして、読むことができた。

40頁ほどの手書きの手記だけれども、これが面白い。かつての大井村の様子を、一つの家の歴史の語りの中に垣間見ることができる。

僕が好きなのは、重郎氏が語る祖母の思い出だ。祖母は、幕末の安政6年(1859)に勝浦村から安部家に嫁入りした。大正8年(1919)に79歳で亡くなっている。明治6年(1873)に筑前百姓一揆が村に押し寄せた時に、その機転によって被害を最小限に食い止めたのが自慢の一つだったそうだ。

父親は重郎氏が生まれてからすぐに亡くなったので、物心ついてからは祖母と母、姉との四人家族だったという。母は家業に忙しく、孫のしつけや炊事は祖母の仕事だった。重郎氏を「重の字」と呼んで可愛がり、近所の悪童たちが、孫をいじめるようなことがあれば、叱りつけてくれた。気性のさっぱりした、気丈な人だったそうだ。

「人の道や世間の道理、神仏を敬い長上には礼をつくすべきこと、道などに放置されている小動物の死骸など(蛇や土竜や猫など)は人目につかぬ様に埋めてやること、無益の殺生はしてはならぬことなど、よくさとされた」

「私が青年団の選手になって競技に出るとき、褌をしっかりしめて下腹に力を入れてやって来いと言ってくれた」

最後のエピソードなど、いかにも明治の女といった振る舞いで、映画のワンシーンを見るかのようだ。