津屋崎で玉乃井旅館の玄関先のホコラの修繕に関わっているので、身近な小さな神様についてあらためて考えている。集落では村単位でまつる氏神の他に、村内の組ごとにまつるホコラがある。それよりさらに小さな単位(一族や近隣や家など)でまつる神様となると、もう公式の記録には残されず、関係者がいなくなると、そのいわれも不明となり、存在も忘れられてしまうだろう。
大井村ではかつて区長も勤めた安部家が空き家となり、その屋敷を借りて原田さんが種紡ぎ村を営んでいる。縁があってかつての当主安部重郎氏(1899ー1982)の手記を読んでいるのだが、そこにこんな記述がある。
「暮れの二十八日、例年のごとく正月の用意に山に行くと、日ごろ見たこともない大石が頭から海の藻をいっぱい冠って鎮座している。あまりの不思議に、このことを旦那寺の和尚様に話すと『ごれは波切不動明王である。お前の山に降られたことはよくよくの縁である。まつって長く家の守護にせよ』とのことで、我が家では二十八日をもって縁日とし、これをまつったのが今の上の段の不動様である。毎朝の散歩には、私は山を一巡りするのが日課で、必ず参拝して家族の無事と子孫繁昌を祈るのである」
久しぶりに、廃屋の脇を抜けて「上の段」に上がると、レンガとコンクリートで作った小さなホコラが枯葉をかぶっている。安部家の子孫が土地を離れたあと、近隣の親戚がお供えをしていたようだが、ここ数年はその形跡もない。
重郎氏は、戦国時代にさかのぼる家系を誇り、この土地での一族の繁栄の歴史と祖母や母の思い出を語る。土地の守り神に、子孫の繁栄を祈ることはごく自然なことだったろう。しかし、重郎氏の代で社会は激変する。土地と切り離されることが、むしろ個人の自由と幸福の条件となったのだ。
彼の死後わずかの時間で、家屋敷は廃墟となり、守り神もすたれてしまった。先祖たちや神々からすると、これはとんでもなく不自然で、条理に背いた社会の破壊だったにちがいない。