大井川通信

大井川あたりの事ども

花月と東洋館

昨年家族の要望で、浅草で漫才を見たいというので、東洋館という寄席に入ってみた。とんでもなく下手な若手や、とんでもなく変なベテランが出演していたが、思ったよりずっと面白く、刺激的な体験となった。 

それで今日は、大阪に行くついでに、なんばグランド花月でお笑いを見ることにした。吉本興業の本丸で、出演者の名前も、観客の数も、施設設備も東洋館の比ではない。いやが上でも期待が高まる。

ところが、見ている最中から、あれ?と、拍子抜けした感じになった。もちろん、それなりに笑えた上での話である。子どもの頃から吉本新喜劇のテレビ中継を見ていたという妻ですら、浅草の方が面白かったという。

なぜなんだろう。他のことはともかく人を笑わせることには自信がある、という自分のプライドにかけて、答えを見つけないといけない。おおげさだが。

花月は、笑いを求める側と、笑いを提供する側との、言わば需要と供給が一致して、人とお金が集まる金ピカの場所になっていた。おもろいこと、が前面に押し出され、それが隅々まで張り巡らされた空間である。 

本来、笑いが生まれるのは、意外な場所や出来事においてであり、もともと笑えないモノやコトがベースにないといけない。予定調和の世界にゆさぶりをかけ、その外に出るのが笑いだろう。

こう考えると、東洋館はむしろ笑いの条件にかなっており、花月はお笑いには不利な場所であることがわかる。花月では、お笑い養成システム内での若手の漫才が特に残念な感じで、スキャンダルで叩かれた中堅や、壊れかけたベテランの存在が救いになっていた。

もう一つは、劇場の規模である。東洋館が200席に対して、グランド花月が900席。漫才は、そもそも目の前の人たちに話しかけるタイプの身近な笑いが原型のスタイルだろう。単眼鏡で表情を読み取りながらの鑑賞は、かなり無理があると思えた。