大井川通信

大井川あたりの事ども

『歴史的実践の構想力』 廣松渉・小阪修平 1991

今日は、廣松渉が亡くなってから、25年目の命日だ。お寺的にはどうかは知らないが、四半世紀というのはやはり大きな区切りだろう。

就職したての頃、雑誌から切り抜いた廣松さんの写真を壁に貼って、読書に励んだりした。訃報に接して、当時の職場で喪服を着て勤務したりもした。若気の至りとしかいいようがないが、自分なりの青春の姿だったのだと思う。

全共闘世代の在野の哲学者小阪修平(1947-2007)との対談本を読む。当時だったら、言いよどみながら自分の経験に即して語る小阪の方が、立て板に水みたいに教科書的な解説を加える廣松よりも「深い」、というように読んだのかもしれない。おそらく小阪自身が、内心そう感じてこの企画を主導したのだろう。

しかし、時の流れは残酷だ。ことあるごとに「60年代末の運動経験」を持ち出す小阪の議論は、ひとりよがりで底の浅いものに思えてしまう。50年の時間が、伝家の宝刀みたいな「60年代の経験」をすっかり相対化し、色あせさせてしまったのだ。その経験のリアリティのみが足場では、普遍的な理論にはとても届きそうもない。

一方、廣松の議論が古びていないことには驚く。小阪のあいまいな話を受けながら、正確に議論の筋を通そうとする真摯な姿勢が、かえって今になってよく見えるような気がする。

当時の廣松は、冷戦崩壊直後に、病をおしてマルクス擁護の論陣を張っていた。本当は小阪以上に、反時代的でアナクロな看板を掲げていたにもかかわらず、思索の根は、はるかに深く強固な地盤に届いていたのだ。

ところで、廣松らしい対談者への社交辞令や過剰な配慮が、この本のよみどころの一つだと思う。たとえば、こんな素敵な応対。

「おっしゃることはわかるつもりでして、体験的な場面とのつながりで具体的に承りたいと思います」