大井川通信

大井川あたりの事ども

眼鏡の話

僕は、子どもの頃から視力がそこそこ良くて、2.0の時もあった。本は好きでも、実際に読む時間は短いことも幸いしてか、大人になって視力が目に見えて下がることもなかった。テレビゲームもしなかったし、仕事以外でパソコンをいじる趣味もなかった。

老眼で小さな活字が見にくいと感じ始めたのも、40代の後半になってからだから、人並みだろう。それでもなんとか我慢して、50代半ばに近づくまで、老眼鏡に手を出さなかった。出始めのハズキルーペを愛用したのは、それがメガネではなくルーペだったからだ。

なんとなく、視覚という重要な部分で、人工物であるメガネの力を借りるというのが気持ち悪かったのだ。しかし、それは勝手な思い込みだ。そもそも現代人の生命など、複雑怪奇な人工物の組み合わせの先に、かろうじて生き長らえているものにすぎない。生身一つ、裸一貫なんて言葉は、比喩としてしか成り立たないのだ。

実際に使い始めてみると、メガネに頼って視力が格段に悪くなり、メガネを忘れると何も見えないという事態となって、すいぶん不便な思いをするようになった。思い返せば、今まですいぶん楽をしてきたのだ。

しかし、悪いことばかりではない。老眼を意識するようになってからは、細かい活字の本が読めなくなって、本を選ぶときに活字のサイズがまず気になった。昔読んだ文庫本は概して活字が小さいため、読み返すことができなくなっていた。それが、ある程度鮮明読めるようになったのだ。

老眼鏡なので、本を読むとき以外は、耳にかけたまま、おでこの上に持ち上げておく。それを忘れてメガネを探したことが何度もある。ある時、ふと気づくと、おでこの上に二個の眼鏡を縦に並べてかけていたことがあった。メガネについては、今頃になって、定番のギャグを感心しながら学習中だ。