大井川通信

大井川あたりの事ども

論理的ということ(その5:少年少女世界の文学)

僕が子どもの頃、隣の従兄の家にあった全50巻の「少年少女世界の名作文学」シリーズに親しんでいたことは以前書いた。僕の場合は、ごく一部のひろい読みである。しかし懐かしいので、そのうちの二冊をネットで手に入れて、自分の書棚にならべて喜んでいる。

購入したのはソビエト編の五冊中の二冊なので、ゴーゴリからツルゲーネフトルストイドストエフスキーまで入っている。長編は部分的な紹介だったりするが、内容的には相当レベルは高く、フリガナは振ってあっても、二段組で500頁の分量はかなりのものだ。大人になった今でも十分に関心を持って読めそうだが、本を読むより本をながめるのが好きな僕が、この二冊を今後実際に読み通す機会はないような気がする。

友人の吉田さんが、小学校2年生の夏に、毎月二冊の配本で買ってもらうようになったシリーズは、これを30冊に編集しなおして再刊したもので、一冊の厚さは変わらない。おそらく小学校6年分の国語の教科書を合わせても、この一冊の分量にも達しないだろう。吉田さんは、およそ一年半の配本期間中に、全30冊に目をとおしたことになる。

これはとんでもない経験である。読書というと、まるで当たり前の穏やか振舞いに錯覚してしまうけれども、本来無味乾燥な活字の羅列に何時間も目を向けながら、その背後の原色の物語の展開を追っていくという行為は、きわめて異様な行為だ。長い人類史の中で、そんな不自然な行為が多くの人にとって身近になったのは、ごくごく最近のことにすぎないだろう。

こうして大量の「書き言葉」を身体に通す経験は、吉田さんの体内に、筋道だった日本語を奏でる溝のようなものを深く刻んだのだと思う。これが、のちの論理性の基盤になる。こう考えると、この「全集読破」というものが、根石さんの語学論における「回転読み」に相当するものであることに気づく。