大井川通信

大井川あたりの事ども

論理的ということ(その6:広松少年)

理路整然と、論理的に話せる人に対しての疑問から始まって、あれこれ書き綴ってきた。他の人から見れば、もしかしたら僕自身も理屈好きな人間に見えるのかもしれないが、僕は、彼らとは全く違う。違うからこそ、その違いが気になって、彼らのことが謎だったのだ。

僕は、人前で発言する場合には、事前にかなりの準備が必要だ。断片をつないで理屈にする作業をしておくことで、かろうじてその場で他人が聞いてわかる話となる。文章もそう。パソコンでの修正作業のおかげで、なんとか一つながりの文章を作成できるだけだ。

自分の中に、書き言葉をスムーズに紡ぎだし、それを一定の文脈にそってつないでいくための装置を欠いているのを明らかに感じるのだ。一方、そういう装置を内蔵しているかに思える人は、事前準備なく、一発で論理を紡ぐことができる。

自分なりに修練を積んで努力はしてきたが、やはりこの力を「後天的」に獲得するのは限界がある。感覚的な言い方になるが、おそらく小学生のそれもできるだけ早い時期に、「書き言葉」の大量摂取という「疑似磁場」を経験することが、この非論理的な風土の中で、首尾一貫した言葉と論理を運用するための不可欠の条件であるような気がする。

ここまで書いて、つい最近書いた哲学者広松渉の記事を思い出した。広松少年は、小学生の頃にすでに大量の戦前の左翼文献を暗唱できるくらい読んでいたというエピソードだ。むべなるかな。