大井川通信

大井川あたりの事ども

思想系読書会を振り返る

昨年の1月に報告して以来、久しぶりに読書会のレポーターを引き受けた。僕が参加しているなかでも、一番歴史のある思想系の読書会だ。30年近く断続的に参加しているが、うまくいかずに満足できないことが多く、そのために大いに悩み、工夫を凝らしてもきた。

近年には、日本人が概念的思考やそれに基づく議論が苦手で、生活現場で思考するための武器としてはエピソードが何より有効であり、それがために日本では文芸評論家(小説のエピソードを使った思考者)が重んじられのだ、という僕にとっては大きな発見をもたらしてくれた。

参加して10年ばかりたったころ、主催者の一人が亡くなったことをきっかけとして、この読書会にもっと真剣にかかわろうと思った。課題図書を自分の生活のフィールドから徹底的に読み解いた上で、その核心を報告することに努めた。自分の個性的な読み(評論)を発表するような会にしてしまったのだから、会にはそれなりのインパクトを与えることはできた気はする。

ただ、近年僕が納得した上述の理由からして、どんなにかみ砕いて論理を取り出しても、それでよい議論に結び付くわけではない。僕は、5年ばかりでこのやり方から離れてしまった。今では、自分が担当の時には、ほとんどレジュメを作らずに、お互いの経験を交換できるような会にすることに腐心している。

ただ、当時行った報告は思い出深いし、僕の血肉となっている。そのころ扱った作品は、北田暁大著『嗤う日本のナショナル』、渡辺哲夫著『知覚の呪縛』、原武史著『滝山コミューン1974』、小山田咲子著『えいやっと飛び出す瞬間を愛している』、永井均著『〈私〉の存在の比類なさ』といった粒ぞろいのものだ。

パソコンの文書ファイルを見ていたら、レジュメ原稿が残っていて懐かしかった。記事の更新が遅れてしまっていることもあり、記録として当時のレジュメや文章を分載することにしたい。次の読書会報告に弾みをつけるためにも。