大井川通信

大井川あたりの事ども

「意識高い系」読書会

今月の吉田さんとの勉強会は、僕の方は菅孝行の自伝がらみで特に映画会社時代のエピソードを報告したが、吉田さんからは最近参加した読書会についての感想メモの提出があった。読書会については僕はいろいろな経験をこの場で話題にしてきたが、吉田さんからというのは珍しい。

僕以上の怒れる壮年である吉田さんは、その読書会について釈然としないものを感じていたようだ。毎月開催される紹介型の読書会のようだったが、本のラインナップを聞くと、最近の文学賞をとった話題の小説や最新の問題意識のエッセイなど、かなりレベルの高い本が並んでいる。実際に主宰者も、自分たちはそこらへんのベストセラーやビジネス書の読書会とは違うというプライドをもっているらしい。

読書会というものの現状に多少は通じている僕には、主宰者のその誇りはうなずけるものだった。しかし、吉田さんには、取り上げられた本の読みと会の雰囲気がなじめなかったようだ。吉田さんが何を期待していたかは、吉田さんが当日持参したという戦争遺跡の本と「かぐや姫」の本のことを考えればわかる。どちらも吉田さんが長年調べたり考えたりしてきたテーマにまつわる本だ。

吉田さんと気質が似ている僕には、吉田さんが何に満足していないかはよくわかった。取り上げる本のレベルがいかに高くても、それが自分の問題意識によって読み解かれなければ意味がない。インテリ好みの話題の本を扱うことに満足するだけで、それを批評し議論する構えのないところでは、むなしいだけだ。それだったら、自分が心から面白いと思えるベストセラーを熱く語る会の方がまだ健全だろう(というのは僕のつけたし。)

つまり、そういう言葉があるかどうかわからないが「意識高い系」読書会のいやらしさみたいなものにあてられたのだと思う。ただ、今の僕は、本については懐の広いスタンスをとっているので、いちがいに否定しようとは思えなかった。

その場が自分にとって少しでも利用価値があるなら参加してもいいし、そうでなければ参加しなければいいだけのことだ。少人数の会ならば、自分の発表のスタンスで会の雰囲気を誘導することもできる。ただし、他人は変えられないし、変えようとは思わないこと。ほとんど自分に言い聞かせるようにそんな話をした。