大井川通信

大井川あたりの事ども

擬態を考える

昆虫の擬態について考えると、訳が分からなくなって、途方に暮れてしまう。しかし、今回は「カレハガ」が見事な擬態を見せてくれたのだから、そのことを考えずにはいられない。僕が考えられる範囲のことをメモしてみよう。

たとえば、僕の好きな蛾のオオスカシバは、とても長い口の管をもっていて、空中で上手にホバリングしながら、花弁の奥深くの蜜を吸うことができる。こういう実用的な進化ならば、そのプロセスが正しくわからなくても、なんとなく理解や共感ができるような気がする。

その蛾だって、もう少し口の管が長ければもっと蜜がすえるのに、と思ったかもしれない。思ったくらいで口の管が伸びるとは思えないが、うんと口を前に押し出す動作の繰り返しが、精神一到何事か成らざらん、の結果を生んだかもしれない。口の管の長い突然変異の個体が生存上有利で、より多く生き残ったということもありそうだ。

しかし、擬態はどうだろうか。その蛾自身の内側から、「枯葉そっくりになりたい」という思いがでてくるのか。そう考えるためには、枯葉に似れば、鳥などの天敵の攻撃を回避できる、という人間並みの思考ができないといけないが、そんなことはありえないだろう。

仮に突然変異で多少枯葉に似た個体が生まれたとしても、そちらの方が生存に有利ということにはならない。仮に擬態が有利に働くとしたら、捕食者の目を見事にだますくらいの完成度が必要だ。しかも他の無数の種類の蛾が、とくに枯葉に似ていなくても立派に生き延びているのだ。

カレハガがとまる姿は、何枚かの枯葉を組み合わせてテントを張ったみたいで、およそ昆虫には見えない。この見事なパフォーマンスをプロデュースできるのは、カレハガ自身ではなく、カレハガと捕食者と枯葉との関係を外部から見通すことができる位置にいて、カレハガの擬態の完成に執念と喜びを感じるような「第三者」だけである。

自然には、こうした「第三者」が間違いなくいる。この結論は覆らない。では、この「第三者」とはどんな存在なのか。僕が途方にくれてしまうのは、ここから先だ。