大井川通信

大井川あたりの事ども

アーケード街でライブを聴く

あらためて自他の身体を軸に据えて、いろいろ考えたり生活したりしようと思っている。自分の身体を新しい環境にさらしたり、他者の身体とかかわらせたりすることに意識的であろうと試みている。新しい身体経験を通じて発見したことを言葉にして、自分の言葉の領域を豊かにできたら、とも。

理屈はさておき、今日は、少し離れた街の大きなアーケード街に出向いた。昔栄えた街だけれども、かつて三つあったデパートも閉店して、縦横に広がるアーケード街もシャッターが目立ち、閑散としている。

そこで街おこしのイベントがあって、妻が仲間とアクセサリーの店を出すことにしたのだ。テーブルや商品の搬入のあと、いつうもより多少賑わいのあるアーケード街をあるいていると、小さなステージで音楽イベントをしているコーナーがあった。

背の高い若者がラップ風の歌をうたっている。地元で活動しているミュージシャンらしいが、ファンの女の子らしき姿は一人しか見えない。その隣で白髪のおばさんが無表情に身体を揺らしている。キッチンカーで買ったものをテーブルで食べる家族連れが、聞くともなしに聞いているくらい。露店の人たちは、まるで関心を示さない。

ただ、若者も声量が小さく、迫力不足で、自分の言葉で場を制圧してやろうなんて思いはないみたいだ。言葉数は多いが、意味はとれない。今風の曲のリズムとメロディは聴きやすく、すぐ近くのベンチにすわって楽しむことにする。

若者は前後左右にステップを踏んで歌うのだが、それも平凡な動きで、アーケード街の秩序を乱すものではない。無関係に行きかい、無関係にふるまう商店街の人々のなかで、彼のパフォーマンスは、勝手さのレベルで、妙にこの場になじんでいる。

何十年もの間、栄枯盛衰と人々の喜怒哀楽を包み込んできたアーケード街のふところの広さを感じる。一方、この場にいらだつこともなく、与えられた場にふさわしい振舞いをする今時の若者のやさしさも感じる。

彼の出番が終わり、脇のテーブルで新譜だというCDを買った。僕以外でそこに並んだ人はなかった。購入を素直に喜んでくれる彼に激励のグータッチ。

無銭の聞き逃げはしたくない思いで購入したCDだが、帰りの車の中で聞くと意外とよいものだった。表現したいものがある人なのだろう。言葉の放射には意味があり、自分の血肉としての言葉が刻まれていた。か細い声量が妙にリアルでくせになる。いじめをテーマにした曲は、実際にそういう体験から絞り出したものなのだろう。その一節。

「自らドブにつかる気持ちで学校に通った」