大井川通信

大井川あたりの事ども

動坂と八幡坂

東京の田端に行った。芥川の屋敷跡は、駅のすぐ近くの住宅街にあった。こんなに近いなら大学時代にでも見ておけばよかったと思ったが、早稲田の漱石山房跡すらのぞかなかったのだから仕方がない。

芥川が歩いた道をたどるのは楽しい。田端文士村記念館でもらった文学散歩の地図からははみ出すが、動坂(どうざか)まで歩いて坂上の公園まで上って下りてくる。『年末の一日』では、芥川が若い記者を漱石の墓に案内する際に、生き帰りに歩いたのがこの坂だ。雑司ヶ谷の墓地で漱石の墓は容易に見つからなかった。「動坂の狭苦しい往来」という記述があるが、今は車道が拡幅されて広々としている。

その動坂を下った道は、今は田端駅に向かい両側にコンクリートの高い壁で仕切られた切通になってさらに下っている。芥川の屋敷跡はその右手の高台にあり、左手の高台には神社と墓所がある。かつては両側の高台はつながっていて、動坂を降りたあとの道はまた上り坂になって、芥川の住むあたりの丘に続いていたのだろう。これが「墓地裏の八幡坂」で、小品『年末の一日』のクライマックスの舞台だ。

「動坂の往来は時刻柄だけに前よりも一層混雑してゐた。が、庚申堂を通り過ぎると、人通りもだんだん減りはじめた。僕は受け身になりきつたまま、爪先ばかりを見るやうに風立った路を歩いて行つた。すると墓地裏の八幡坂の下に箱車を引いた男が一人、梶棒に手をかけて休んでいた」

荷車には「東京胞衣(えな)会社」と書かれて、胎児の胎盤などを運んでいるものだった。(芥川全集の注によると、実際に田端の崖上に胞衣埋葬地があったそうだ)芥川は男に声をかけて、後ろから荷車を押す役をかってでる。そしてラストの一文。

「北風は長い坂の上から時々まっ直に吹き下ろして来た。墓地の樹木もその度にさあつと葉の落ちた梢を鳴らした。僕はかう言ふ薄暗がりの中に妙な興奮を感じながら、まるで僕自身と闘ふやうに一心に箱車を押しつづけて行つた。・・・」

今でも墓地は切通の車道の崖の上にわずかな木々とともに押し込まれるようにして残っている。ところで、僕にとってこのシーンが忘れがたいのは、亡くなった近代文学研究者の佐藤泰正先生の解釈を聞いたからだ。

今から30年以上前だが、一人暮らしをしていた北九州市八幡の三ヶ森のアパート近くの小さな教会に、佐藤先生が来て、芥川の講演をした。正式に礼拝した後の会で、講演目当てで聖書など持たない僕にはずいぶん場違いな感じだった。佐藤先生の『年末の一日』の解釈はこうだ。

若い芥川は、漱石から技術に走らず「人間を押せ」というアドバイスを受ける。しかし結果として漱石のアドバイスを見失った芥川は、雑司ヶ谷の墓地で漱石の墓をなかなか見つけることができない。その帰り道、人間ではなく人間の抜けガラ(胎盤等)をひたすら押している自分の姿に気づく。

佐藤先生によれば、芥川が自分の文学的な人生を悔恨とともに見つめなおしている作品ということになる。やや出来過ぎな感じもあるが、何気ない身辺雑記を読み解く解釈の鋭さに当時驚いた記憶がある。芥川の自死の前年に発表された小説であることを思えば、なおさら坂道で格闘する主人公の姿は悲壮だ。

羽田に行く前の短い時間で、大正末年の精神のドラマの現場(大きく改変されているとはいえ)をたどれたのは収穫だった。

 

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