大井川通信

大井川あたりの事ども

千差万別

村瀬孝生さんによると、時間と空間の見当を徐々に失っていくのは、人にとってごく自然な過程ということになるが、ブログの文章を書くというのは、ささやかなそれへの抵抗という側面がある。住み慣れた住居が、その人の日常生活の時間と空間を血肉化したものだとすれば、生活全般にわたって書き込んだ文章群も、その人の精神生活を秩序立て、血肉化したものといえるかもしれない。

どういう言葉を使うか、という点でも、自分の内に自然に浮かんでくる言葉の意味を確かめて、自分の語彙として再度定着させる作業のようなものだろう。だから、できるだけわかりやすくと心掛けながら、愛着の感じられる言葉や漢字についてはあえて使用しているところがある。

千差万別という言葉を使おうとして、変換できないので戸惑った。文字づらを思い浮かべて、「せんさまんべつ」と入力していたのだ。どう考えても「せんさまんべつ」だろう。しかし気になって調べると「せんさばんべつ」が正しい読みだと知って、不思議な気持ちになった。万を「ばん」と読むのは変だし、実際に口に出しても、「せんさまんべつ」の方が自然な気がする。何より多少は言葉に敏感なはずの自分が、こんな読み間違いをしているというのが、思い上がりのようだが腑に落ちなかった。

しかし、何回か口に出してるうちに、音としては「せんさばんべつ」の方が自然であること、「せんさまんべつ」にははっきりと違和感があることがわかってくる。時間をかけて、じわじわと感覚がよみがえってくる感じなのが面白かった。

たぶん視覚情報と聴覚情報では記憶される場所が通常は別にあって、読むことが優位な生活の中では、視覚のイメージが、聴覚の記憶を引き出すのを妨害している、ということなのだろうか。

ところで、千差万別を何度も口にしているうちに、こんな言葉が思い浮かんだ。千客万来。こちらは、どう転んでも、せんきゃくばんらい、だ。すると、僕らの世代ではとりわけ懐かしい、万博(万国博覧会)「ばんぱく」が、次には万国旗「ばんこくき」までひらめきだした。

 

老人ホーム「ひさの」を訪ねる

大井炭鉱坑口にお参りしたあと、下流の隣村まで足を伸ばす。ゆったりとして明るい集落の旧家で、住宅型有料老人ホーム「ひさの」をしている田中さんを訪ねる。田中さんは、原田さんのお店で以前から顔見知りだけれども、ご自宅に伺うのは初めてだ。

田中さんは東京の病院で看護師をしているときに、村瀬孝生さんの著書を読んで、これだと思い、宅老所よりあいを訪ねたという。4年前に実家を改修して、ご自分で「ひさの」を始めた。母屋の前の蔵を住居に改造しているが、よりあいと同じ建築事務所の手になるもので、魅力的な外観だ。田中さん自身は、近隣の大規模ニュータウンで育っていて、ここは祖父母の家だったという。

部屋数の多い立派な母屋には、六人のお年寄りが暮らしている。偶然だが、僕の職場の先輩を、昨年には看取ったことを知った。僕が村瀬さんの講演での印象に驚いた話をすると、笑って聞いてくれる。

昨年からニュータウンの再生に関わる集まりに参加しているが、不動産を受け継いだ若い世代が、地元に戻って、それを様々に活用してまちづくりに生かしている姿に出会うことになった。田中さんも、そうした人々と軌を一にしている。

ホオジロとヒバリのさえずりを聞きながら、川沿いの2キロの道のりを歩いて帰る。初めての家を訪ねたり、行きずりの人に声をかけたりするのはちょっと敷居が高い。車で乗り付けるのではなく、手間ひまかけて歩くと、そうした引け目が軽くなるのが不思議だ。

 

化かされた話(森の恐怖)

森の中に通じる小道の入り口に、遠目には、白と黒に色分けされた紙袋のようなものが置かれている。周りで鳥が騒いでいる。あれは何だろう。

近づくにつれ、紙袋ではなく、こちら向きで座る白黒の子猫だとわかった。この辺で見たことのないかわいい猫だ。鳴きまねをして手招きするが、子猫は小道を森の中に逃げ込もうとする。しかし、とぼとぼとおぼつかない足取りだから、追いつけそうだ。

思わず走り出す。森に入ると道はゆるやかに蛇行し、猫を見失う。すると、こんどは道の先に、灰色の毛皮でできた大きな袋がポツンと置かれている。

近づくと、毛皮の袋と思ったのは、むこう向きのタヌキの背中だった。町では見かけない毛のふさふさした大きなタヌキは、ゆっくり振り向くと、道のわきのやぶに入っていった。

 

 

大井炭鉱跡再訪

ようやく休日の晴天と体調がかみあって、双眼鏡を首にかけ、竹の杖をついて大井川に降りていく。氏神様と田んぼの真中の水神様に、しばらく足が遠のいていたことを詫びる。水神様の上空でホバリングして、ヒバリがせわしなく高鳴きをしている。そういえば、じっくりヒバリを聞くのさえ、今年初めてのような気がする。

ふとのぞくと、Hさんの家のご主人の姿が見える。昨年倒木が首にあたって4カ月入院していたのだが、後遺症もなく元気な姿に喜んで挨拶する。Hさんの祖父が労務課長をしていた大井炭鉱のことで初めて聞き取りをしたのは、もう10年も前のことになる。その時は、長男の中学校の社会科の課題にも協力していただいた。その長男も今年は社会人二年目だ。

種紡ぎ村(原田さんが住む家屋敷)を通りかかると、村人の小川さんが畑仕事をしている。それで大井炭鉱の坑口跡を案内することになった。近くの谷は竹が倒れ込んでいて、去年坑口を発見した時より歩きにくい。この調子では、来年はもう近づけないかもしれない。藪の中にぽっかり口を開けた70年前の坑口に、小川さんもびっくりする。持参した小瓶の酒を坑口に注いで、山の神に奉納した。

帰りに、里山の斜面に二段に造成された、かつての炭坑の納屋(宿舎)跡に上る。今は柿の木が植えられているばかりで眺めがいい。終戦直後、よそ者の炭鉱夫たちを村人はどんな風に見ていたのだろうか。疎開者も増えて、きっと騒然とした雰囲気だったろう。当時、村の若者4人で炭鉱を手伝ったと教えてくれたRさんを、久しぶりに訪ねる。数年前まで元気に散歩をしていて、奥さんと家の前で畑仕事をする姿を見かけていたが、今は家で伏せっている。

Rさんの家では、東京から長男の方が介護のために単身戻っていた。お母さんも身体を悪くして、二人とも施設に入ったばかりだそうだ。お父さんにお世話になったことを話すと、訪問を伝えてくれるという。息子さんは、高台に並ぶ住宅街を眺めながら、この辺もずいぶん変わりましたと感慨深げだ。その住宅街から来ている自分は、少し申し訳ない気もした。

Yさん宅をのぞくと、だんなさんが盆栽をいじっているので、挨拶をして庭の椅子で話し込む。ここ数年で、土地の歴史の聞き取りをした長老が、次々と亡くなったり、病気で伏せったりしている。そんな話をすると、Yさんが、近隣の平井山のメガソーラーの大規模開発が資金難で中断していることを教えてくれる。道理で、このごろ重機を見かけなかった。古代の人の墓を破壊して、明治の人が守った水源の森を荒地に変えたまま放置するというのだろうか。僕は憤慨するばかりだが、Yさんは行政が安く買い取って、公園として整備すればいいという。土地にしっかりかかわって生きている人の考えは、タフで柔軟だと感心する。

読書会三昧

大学の頃からの延長で、ずっと読書会というものにかかわってきた。友人や職場の同僚を誘って主宰したり、既存の会に申し込んで参加したりした。もし読書会がなかったら、社会人になってから勉強を継続することはできなかっただろう。その恩恵は感じる一方、その限界も痛切に感じざるを得なかった。

素人の読書会には、その分野の専門家や読みのプロが参加しているわけではない。だからその場から学ぶことは、ほとんど期待できない。期日までに課題図書を読み、事前に自分の読みをまとめ、当日の議論で自分の考えを捉えなおす。あくまで自分本位の作業をするための、ペースメーカーや励みとなるものでしかないのだ。それ以上のことを求めると、不満や失望ばかりがつのるだろう。万一、自分の考えをしっかり受け止めてもらえたり、それを先に進める優れた見解に出会えたとしても、ラッキーなおまけと考えるべきなのだ。実際、熱心な参加者ほど、自分の考えのみに関心があるような素振りをみせていた。

だから、読書会について、他の参加者のいろいろな意見が聞けて面白い、というような模範解答(理想論)を耳にしたりすると、よくそんな空々しいことが言えるものだと呆れていた。しかし、近年、三十年来のこの確信がくつがえされた。それは、昨年後半から、初めて小説のみを読む読書会に参加するようになったからだ。

考えてみれば、それまで読書会で読んできた本は、哲学や社会科学や批評の本だった。もともと「本当」を目指して書いている本だから、その本の読みや解釈においても、「本当」からの距離で歴然と優劣が生じやすい。ピント外れの読みがもたらすものは何もないのだ。

ところが、小説は、嘘に嘘を塗り固めた「虚構」である。読みは唯一の真実へと収斂することなく、何を感じるか、何を触発されるのか、何を導き出すのかは、まさに千差万別だ。そこでは個別的で、個性的な読みほど面白い。クンデラの『別れのワルツ』の読書会で、「作中ろくな男が出てこない」「誰の視点で読んでも感情移入しにくい」という女性たちのストレートな感想には、うならされた。

もう一つ、批評と小説の読者の違いを言うと、前者には虚栄がどうしても混じるが、後者はどっぷりと楽しむのが目的となるということだ。批評好きは、読みこなせない傑作をもてはやすが、小説好きは、面白くない名作には容赦ないだろう。ブランド品を求めて着る人と、あくまで着心地の良さを重視する人との違いといえるだろうか。洋服そのものについて語り合えるのは、後者というわけである。

イソヒヨドリの弾道

国道沿いの駐車場に車を停めていると、黒い影が、前方の上空からまっすぐに飛んできて、見る見る大きくなって、頭をかすめる。とっさに振り向くと、そのままの浅い角度で、少し先の自動車の下のあたりに「着弾」した。

イソヒヨドリだ。そっと近づいてのぞきこむと、全身濃紺で、腹のあたりだけ濃い赤のオスが地面をはねている。もう少し明るい青と赤なら目立つのに、ちょっと目には、黒っぽい鳥に見える。もともと海辺に住むせいか、ウエットスーツを着用したような、ぬめっとした質感だ。海辺の岩場に近い環境のために、アスファルトとビルの街中に進出して、元気に暮らしている。きっと潮風と海鳴りに負けないじょうぶな喉で、とてもきれいで大きなさえずりをビルの谷間に響かせる。

僕が好きなのは、その直線的な飛び方だ。すこし太めの身体に短い翼と尾羽。あまり羽ばたきを感じさせずに、砲弾のように滑空する。今までも、街角で何度かハッとさせられてきた。だから、今回の「襲撃」にも、すぐにイソヒヨドリとわかったのだ。

鳥たちの生活と僕の生活が不意に交差する場所。そこで僕は、彼らと挨拶を交わし、ひそかに励ましあう。

 

無能の人

柄にもなく、一流の人について書いてしまったので、つげ義春(1937-)の『無能の人』を読み返す。

この連作に出会ったのは、小倉にあった金栄堂という小さな書店で、雑誌「comicばく」を立ち読みした時だった。「カメラを売る」を読んで、ラストの場面に打ちのめされたのをはっきりと覚えている。1986年の雑誌掲載だから、入社3年目で仕事もうまく回らなくなり、地方都市の歓楽街に入り浸っていた頃だ。無能の人の生き方が心に染みたのだと思う。

無能の人は一流の人とは違い、まともな仕事に打ち込むことができない。そのくせ思いつきで熱しやすいから、いろいろなものに手を出そうとする。漫画家、カメラ屋、古道具屋、石屋、渡し守、虚無僧。貧乏暮らしのために、金もうけのことが頭からはなれないが、気が小さく、何事もうまくいかない。しかしそんな自分を、やむを得ず、半ば以上肯定している。

六話ともすべていいが、やはり「カメラを売る」には心を打たれる。主人公は、毎月一度の天神様のお祭りの縁日で、店を出す末端の古物商仲間に出会い、彼らの世話になって商売に手を出したことを回想する。無能の人は、生きるために多くの無名の人の善意やつながりに助けられてきたのだ。彼は、その一人一人に、口には出さずに「お世話になりました」と胸の内で言葉をかける。そうして、手をあわせ、深く祈る。ラストは、小さい息子の手を握って、茫漠とした鳥居の外に去っていく後ろ姿だ。

無能の人は、一流の人よりも、この世であきらめることの意味については、より良く知ることができるかもしれない。誰に感謝して、何に祈るべきかということも。

一流の人

職場に行く途中に、大きな神社と小さな博物館がある。その博物館の館長さんは、そうそうたる経歴の考古学の学者だ。大学を退職後、いくつかの大きな博物館を経て、ここの館長を務めている。引き受けていただいたときには、地元の人たちは大喜びだったと聞いている。今年で80歳だそうだが、年齢をまったく感じさせない。

朝、通勤の途中に車で通りかかると、バスを降りて神社に向かう館長の姿を見かけることがある。毎朝神社へ参拝したあと、他の職員と同じように八時半に出勤しているようだ。おそらく週に何日か遅い時間に顔を出すだけでも十分な役職のはずである。何事かを成し遂げる人というのは、やはり日ごろの姿勢が違う。

僕の大学時代の恩師は、もともとは経済学の出身だが、ヨーロッパの現代思想の研究で多くの業績を残した人だった。後年、仏教の研究に転じて何冊も本を出している。晩年死期を悟ると、一年かけて研究の集大成となる社会哲学の大著を書き上げたうえで、この世を去った。勤務校では、正月三が日を除いて、毎日早朝から夜遅くまで研究室にこもって勉強していたという「伝説」が残っている。

一流の人の華やかな才能と活躍の陰には、徹底して継続するという習慣があるのだと思う。

 

小心と怒り

少し前に姉から聞いた、ずいぶん前の実家のエピソード。

まだ父が生きている頃、台所で母が手にケガをした時のこと。包丁で誤って手を切ってしまい、血を流している母に向かって、父は動転して叱りつけるばかりで、何もできない。姉がタクシーを呼び、外科医に連れていき処置をしてもらって事なきを得ると、父はニコニコしていたそうだ。お父さんは気が小さくて、本当は心配なのに怒ることしかできないから、と姉がいう。

僕は驚いた。僕も自分の家族に対して、思い当ることがあったからだ。小心だから、心配ごとを受けとめきれずに、攻撃的にふるまってしまう。父親が嫌で、若いころに実家から遠く離れてしまった自分は、歳を経るごとに父親に似ていることを自覚することが多くなった。ただ、そとづらが良く身内には怒りっぽいというだけでなく、内面のメカニズムまで同じことにショックを受けたのだ。

しかし、驚いた理由はもう一つある。姉がそんな正確な分析を、たんたんと、むしろ懐かしそうに話していたことだ。姉はそういう父親を理解して、最後まで身近にいて、何くれと気づかって面倒を見ていた。本当に頭が下がる。

明後日で父が亡くなって十二年。

 

 

疎開の意味

戦争中の生活を描いた『夏の花』の連作を読むと、「疎開」にもいろいろな種類があることがわかる。そもそも、疎(まば)らに開く、だから、原義は軍事作戦用語で、集団行動している兵を散らして攻撃目標となるのを避けることのようだ。

主人公は、千葉から実家のある広島に単身疎開してくる。こうした自己責任による疎開は「縁故疎開」と呼ばれる。実家の子どもたちは、遠方に集団疎開した者は助かったが、まだ年少でそれに参加できなかった子どもは命を落とした。子どもの疎開は「学童疎開」と呼ばれ、おそらく一般的な疎開のイメージはこれだろう。主人公の実家は軍隊に納品する工場をしているが、空襲が始まると、軍から「工場疎開」を命じられる。

近隣の民家が次々に取り壊されていく描写もあり、実家の次男の家も一時は「建物疎開」の指定を受けるが、市の有力者にかけあってそれを免れている。こういう疎開は知らなかった。空襲による火災で重要施設が延焼するのを防ぐために、防火地帯を設ける目的で計画的に建物を撤去したらしい。江戸時代には、火災を消し止めるために周囲の建物を壊したと聞いて、ずいぶん野蛮な方法だと思っていたが、戦争中にも平然と同じことが行われていたのだ。しかし、原子爆弾の威力の前には、建物疎開は何の効果もなかっただろう。

大井川周辺での聞き取りでも、戦争で親戚を頼って村に移り住んできた人たちは「疎開者」と呼ばれて、地元の人との溝は長く残っている、と聞いて驚いたことがある。しかし今の時代には、頼るべき田舎の親戚も、田舎での生活を支える農業の基盤もすでに残ってはいないだろう。