大井川通信

大井川あたりの事ども

のりたまとすきやき

週に一回はスーパーに買い物に行く。地域で一番安い店に通っているのだが、すぐ近くに同じくらい安い店ができた。どちらもチェーン店なのだが、ライバル店にあえてぶつけて出店する戦略があるらしい。いつも購入する商品については、どちらの店がどのくらい安いかが頭に入っているというのが自慢なのだが、まあたいしたことじゃない。

今日は、商品の棚で、ふりかけの「すきやき」の包装に発売55周年の文字が見えた。自分の年齢に近い文字を見ると、どうしても反応してしまう。それなら「のりたま」はと調べてみると、その3年前が発売開始で、こちらも同世代だ。

 僕は「すきやき」が好きで、家にも普通に置いたあったと思う。しかし、当時頻繁にコマーシャルが流れていたのは「のりたま」で、「のり~たっまっ♬」で始まるメロディは耳に残っている。だから、ふだん家で食べていないこともあって、ひそかにのりたまへのあこがれがあった。やがて味を知って、甘みのあるすきやきの方がおいしいと思ったけれども。

今日は、のりたまとすきやきを二つともかごにいれて帰る。ぜいたくに食べ比べをしてみようと思う。

砕けるような祈り

世間では、桜の花盛りである。ぼうっとした薄いピンクの雲がまちのあちこちに広がっている。公園や道路などの土地の造成で、そこら中に桜を植えすぎている気さえする。村里の遠景に、桜が一本目をひくくらいの方が、なんだか好ましい。

夕方、大井川の岸辺を歩いて、村の賢者原田さんを訪ねる。原田さんの仮寓する民家の隣の薬師堂には、見事な桜の古木が花を咲かせているが、それもすでに夕闇に沈もうとしている。焼酎黒霧島の紙パックを持参すると、夕食後だという原田さんは、さっそくコップについで美味そうに飲み始める。

若いころ、修道院に10日ばかり滞在していたときの話。そこの神父の祈りはいやらしい感じがして好きでなかったが、無口な修道士がいて、その人の祈りの姿が良かったという。まさに「くだける」という様子だったと。

人間は他者からの視線や評価に骨がらみになっている存在だ。日常のふるまいはもちろん、修行や祈りでさえも、どこか観客を当て込んでいる。無心に「神」に身を投げ出す修道士の祈りを、原田さんは、世俗的な我が身の統一が砕け散ったものと感じたのだろう。

原田さんの言葉を反芻しつつ、満月に照らされて家に帰る。

 

 

『夏の花』 原民喜 1947

『夏の花』三部作といわれる「壊滅への序曲」「夏の花」「廃墟から」の三作を収録した集英社文庫で読む。

「壊滅への序曲」は、前年に妻を亡くして実家に疎開してきてから、原爆投下の直前までの様子を描く。時期的には最後に書かれたものらしく、作者をモデルにした三男以外にも、長男や次男の視点、原爆投下後の未来からの視点を使って複雑に構成されているが、ぎくしゃくしてややわかりずらい。「夏の花」は原爆投下前後の惨状を描き、「廃墟から」は市外に逃れたあとの体験をつづっている。どちらも、一人称の手記であり、不意に尻切れとんぼで終わったり、途中で文体が変わったりする不整合を見せている。しかし、これがかえって断片化された経験の生々しさを伝えているようだ。

文庫本の解説者は、「壊滅への序曲」を小説的な構築力を示したものと絶賛しているが、少しピントがずれた評価の気がする。小説の巧拙だけなら、おそらくこの作者は問題とはならないだろう。実際の記録ノートを元にした「夏の花」等は、フィクションかノンフィクションかの違いをこえた言葉の力をもっていると思う。

話はズレるが、僕は、「〇〇を許さない」「〇〇を許すな」という語法が嫌いである。この言い方は、自分の感情的な判断を一般化し、他者の心の内にまで押し広げようという傲慢さがある。かつてはサヨクの専売特許だったが、近ごろは元気になったウヨクも振り回しているかもしれない。(いや、ウヨクは基本的にいまだ素朴で粗暴だろう)

たいてい世間で言われる「許さない」というのは手段で、真の目的は、誰かに自分に都合のいい何かをさせることにある。「アベ政治を許さない」というスローガンは、現政権を倒すことが目的だから、政権を支持する人々には共感されるものではない。たんに、評価しないとか、好きでないといえばいいのにと思う。

 

「男であるのか、女であるのか、殆ど区別もつかないほど、顔がくちゃくちゃに腫れ上って、随って眼は糸のように細まり、唇は思い切り爛れ、それに、痛々しい肢体を露出させ、虫の息で彼らは横たわっているのであった」(84頁)

 

しかし、『夏の花』を読むと、ここに描かれた事実こそ、本当に許してはいけないものだ、と痛切に感じる。けっして何か別の主張のための手段とはならない、絶対的な許し難さ。主義主張を超えて、あるいは時代を超えて、その事実には許し難さの刻印がはっきりと押されている。そういう事実を十全に結晶化させているところに、『夏の花』という作品の普遍性があるのだと思う。

 

山本健吉の『現代俳句』

昨年の夏ぐらいから少しずつ読んで、ようやく読了した。もとは1952、53年に出版されていて、学生時代に愛読していたのは、1964年の角川文庫版。今回は、1998年の角川選書版の『定本 現代俳句』を読み通した。

ちょくちょく拾い読みをして、面白いと思いながら、きちんと通読していない本というのがある。有名どころでは、マルクスの『資本論』やハイデッガーの『存在と時間』など。まるで読んでいないが、できたら目を通してみたい本なら、はるかにたくさんある。人生の限られた時間で、それらに手をつけたいと思えるようになった。山本健吉(1907-1988)の『現代俳句』は前者の本だ。

山本健吉は俳句の実作はしていない。しかし一流の実作者をうならせるような批評を書く。定本版の前書きでは、俳人飯田龍太が、近代俳句の三つの柱として、正岡子規高浜虚子とともに、山本健吉の名前をあげている。僕は、もともと文芸評論が好きだったので、そういう山本健吉のありかたにあこがれていたのだと思う。

久しぶりに手に取って、まず感じたのは「及び難さ」だった。当たり前のことではあるが、このような語彙と感覚と教養の背景をもった文章は、今さら手の届かないところにある。しかし読み進むにつれて、今の自分でも学んだり感応したりできるところはあるように感じられた。できれば、この先も繰り返し読んでいきたい。

定本版では、角川春樹に関する文章がかなり追加されていて、どうかと思ったのだが、本文の厚みのある犀利な分析に比べて、軽くのびやかな文章で、意外と楽しめた。ああいう破天荒な人物と付き合えたのも、山本健吉のふところの広さなのかもしれない。

モズのはやにえ

ベテランの天文ファンの知人がいた。その世界で実績を積んでいて、自宅にも望遠鏡のドームを作り、相当の機材をもっていたようだ。僕は、小学生の高学年くらいの時だけの天文ファンだったが、デパートで望遠鏡のカタログを集めてきて、穴があくほど見つめていたので、部分的な知識だけはある。オルソスコピックケプラー、それからハイデン。望遠鏡の接眼レンズの種類とそのレンズの組み合わせを得意げに話すと、彼は感心してくれた。

その知人が、外国に皆既日食を観に行ったことがある。何度目かの挑戦でようやく観察に成功したと喜んでいた。皆既日食に出会うと人生観が変わるというくらい素晴らしいものらしい。ただ彼にはそうしなければいけない別の理由もあったという。彼くらいのアマチュア天文家になると、皆既日食を観たことがない、というのでは格好がつかないそうだ。そんなものなのかと思っていた。

さて、話のレベルはとてつもなく、ぐっとさがる。僕は一応、鳥見を趣味にしていて、しかも身近な鳥の観察しかしていない。子供の時から、好きな鳥といえば、モズだ。電線で尾を回し、野原のバッタなどに目をつけて、飛び降りて捕まえる生態は何度となく観察してきた。にもかかわらず、有名なモズのはやにえをただの一度も見たことがないのだ。これは、ちょっと格好がつかない気もする。

モズは、捕まえた獲物を木の棘や有刺鉄線などに刺しておく習性がある。餌の備蓄のためともいわれているが、諸説あるようだ。普通に鳥見に歩いていたら、いつかは出会えると楽観しているうちに、今に至ってしまった。おそらく、特別な目の付け所が必要なのだ。今年の秋には、必ず見つけて、汚名挽回したいと思う。

ミサゴと謎の魚ダツ

すっかり春の海だ。ここは外海だけれども、今日は波も穏やかで「ひねもすのたりのたり」という風情だ。僕はウニの仲間の殻を集めているのだが、この季節には、不気味な宇宙人の頭骨のようなヒラタブンブクや、丸くて薄いカシパンの殻が大量に打ち上げられることがあって楽しい。

今日も河口付近の浜辺に、二羽のミサゴが、時にホバリングを交えながら大胆に飛び回って、心が躍る。海を見に来ている人も多いのだが、ミサゴの姿に注目している人は見当たらない。なぜだろうか。一つには、同じくらいの大きさのトビが、普通に見られるせいかもしれない。しかし白いし、海にダイブするし。すると、細長くしなやかな翼が大型のカモメ類にも似ていることに気づく。海辺では、カモメもありふれた鳥だ。異なる種でも、同じような生活をしていると、きっと姿も似てしまうのだろう。

ふと、目の前の浅瀬にミサゴが飛び込むと、足もとに何かをつかんで跳びあがった。細長いウミヘビのような魚だ。銀色に輝く身体は1メートルくらいはありそうだ。身をくねらせて暴れている。なにより口元がワニのように長く裂けて、鋭くとがっている。それがミサゴの身体に直撃したのだろうか、たまらず魚を水面に落としてしまった。

昔の怪獣映画のワンシーンのような、迫力のある場面だった。ラドン対宇宙怪獣といったところか。あとで図鑑で調べると、その細長くワニのような口をもった魚はダツというらしい。釣り好きの知人に聞くと、エサの小魚を追って浅瀬に来ることもあるそうだが、不味いので釣っても捨ててしまうそうだ。ネットで見ると、ミサゴがダツをつかまえる動画がたくさんアップされている。思ったほど珍しい組み合わせではないようで、少しガッカリしてしまった。

 

 

『別れのワルツ』 ミラン・クンデラ 1973

読書会の課題図書なので、さっと読んでみる。

個性的な人物同士が、せまい温泉町の五日間に、饒舌に自己を語りながら運命的にからみあう、という小説。いかにも作り物めいた虚構の世界にぐいぐい引き込まれるのは、登場人物がそれぞれ、人間の本質の「典型」を担って、三つ巴、四つ巴でにらみ合うという物語の骨格がしっかりしているからだろう。

・ルージュナ:温泉町の美人看護師。お腹の子を武器にあらぶる。「健康(生殖)」
・クリーマ:人気トランペット奏者。スターらしくない恐妻家のMキャラ。「恐れ」
・カミラ:クリーマの超美人妻で元アイドル。嫉妬にかられつつも自立へ。「美」
・バートレフ:アメリカ人の初老の富豪。とにかく余裕の聖なる性豪。「愛」
・ドクター・スクレタ:温泉町のわがまま医師。不妊治療と称して、自己増殖を笑撃展開。「欲望」(町中に、彼にそっくりの鼻の大きな子どもがあふれ、バートレフの子どもにすら、同じ特徴が見いだせる)
・ヤクブ:政治の世界の苦労人。あれこれ欠落と屈折を抱えつつ、祖国を脱出。「観念」
・オルガ:処刑された政治犯の娘でヤクブが保護者。やや美人で療養中。「病(不妊)」
フランティシェク:ルージュナの地元の恋人。ガチ恋をつのらせ走り回る。「嫉妬」

こうしてみると、「観念」と「病」が結託して「健康」を敵視し、一方で「愛」が「健康」を愛でるという構図もよくわかる。

あれこれ逡巡しつつ他者を毀損する「観念」が何より度し難く、罪作りであること。「愛」すらとりこんで(養父となし、また密かに実子を託して)「欲望」がはびこること。この二点に、小説の世界の現代性を見ることができる。

宇宙ロケットの引退

小学校の夏休み、アポロ11号の初めての月面着陸(1969年)を、テレビ中継で見たのを覚えている。目覚ましい宇宙開発を背景にして、当時の公園には、宇宙ロケットの姿をした遊具が設置されるようになった。大井川の周辺でも、ロケット型の滑り台のある通称ロケット公園がある。ただし、その遊具はロープで囲われて使用禁止だ。半世紀近い年月を経て、とっくに耐用年数を過ぎてしまったのだろう。

6年前に、枝光で長期の演劇ワークショップに参加したときに、公演用にグループで寸劇を創作した。近所には宇宙をテーマにした遊園地スペースワールドがあり、そこには大きなスペースシャトルの実物大模型がそびえたっている。その遊園地に勤務する風変りなロケット学者が、地域の盆踊りで使う木のやぐらを見て、本物の宇宙船だと騒ぎたてるという設定だった。スペースワールドは、製鉄所の跡地に1990年に開業している。鉄冷えを受けて、バブルの時代のリゾート開発の産物だったが、昨年末にふいに廃業してしまった。

久しぶりの枝光を歩くと、無人の遊園地の敷地内ではすでに遊具の解体が始まっていた。ジェットコースターのレールは工場のパイプラインのようだし、カゴをはずした観覧車は、巨大な工業用ファンのようだ。色褪せた張り子のスペースシャトルも見納めだろう。町裏の小さな公園には、アポロの月着陸船型遊具がひっそり着地していて、勝手にワークショップの形見みたいに思っていたのだが、それも撤去されてピカピカの滑り台に代わっていた。

檸檬忌に書店に爆弾を仕掛けそこなった話

とある町の古本屋に久しぶりに出かける。棚をひととおりながめて、とくに欲しい本がなかったので外に出た。そういう時、出入口からさっと姿を消すのは不人情のような気がして、店先の百円の本が並んだ箱の前で立ち止まって、ちょっと本を探すふりをする。すると、店のガラス窓にこんな内容の張り紙があるのに気づいた。

この店の名前が梶井基次郎の小説からとっていること。そのため、梶井の命日である檸檬忌には、お祝いの催しをすること。立ち読みでもいいから、ぜひ『檸檬』を読んで欲しいこと。

何より驚いたのが、檸檬忌というのが、3月24日、つまり偶然にも今日ということだった。僕はすぐに店の中にとって返して、目星をつけていた一冊を手に取ると、少し興奮して店主に話かけた。

手ぶらで帰ろうとしたけれど、お店にとって大切な日みたいだから一冊買うことにしました、と。ちょっとした遊び心のつもりで。しかし、もともと店内には特別な催しの気配はない。店主はすまなそうに、張り紙が以前のものであり、今年は古本市の出店準備で忙しいのだと話す。名前を借りただけですからと、この話題にさほど気乗りしない様子だ。

かってに当てが外れたように思ったけれど、家に戻ってから、本当に久しぶりに『檸檬』(1924)を手に取った。そして驚いた。初めの一行から最後の行まで、細かい語句や言い回しにいたるまで、既視感があるというか、生々しく身体に入っていたのだ。梶井基次郎(1901-1932)の短編集を読んだのは、学生の頃だ。数十年体内で生き続けるこの文体こそ、読む者に仕掛けられた高性能の爆弾なのだと納得する。

 

「あゆみ」 劇団しようよ 2018

枝光のアイアンシアターに久しぶりに行く。市原さんが辞めてから、行ってなかった。枝光本町商店街は健在だった。もう商店街を舞台にした芝居、とかはやってないと思うが、そういうことと関係なく、したたかに生き延びている。演劇とか、現代美術とか、あるいはまちづくりとかが商店街や街を活性化させるという。それ自体はいいことだが、生活の手強さ、があってこそだ。そしてたいてい、上澄みをかすめ取るだけで、そこに手が届いてないような気もする。

柴幸男さんの有名な作品の、劇団としても三度めのリミックスとのこと。原作を知っていれば、もっといろいろ気づけたのだろううが、とても気合を入れてていねいにつくっているのがわかって面白かった。小劇場の舞台はいいなと、心から実感できた。

舞台装置はまるでない。小道具もランドセルやカバンやカメラぐらい。鬚もじゃだったりする普段着の男たちが、少女の半生の物語を鮮烈に立ち上げる。芝居の間役者はずっと壁際にすわって、はけたりしない。なにもない空間で、役者たちの身体だけで、架空世界を生み出すマジックは爽快だ。

シーンの合間ごとに時間を止めるようにして、気弱な子犬みたいな目をした男(たぶん演出の大原さん)が出てきて、画用紙をめくりながら、手書きの文字で観客にメッセージを送る。あなたはどこから来ましたか、に始まって、アンネの日記のことなど、芝居のテーマを外側から問いかけて、ドキッとさせられる。目まぐるしく展開する作り込んだ舞台と、アナログで素朴なメッセージとの対比が鮮やかだ。

最後に、最初にさかのぼって、早回しのように各シーンの断片をつなぎあわせる。役者たちは走りまわり、声をそろえてセリフを響かせる。柴さんの「わが星」でも同じような場面を観たことのあるのを思い出した。時空が沸騰したような、悪夢のような、死ぬときに見る一生の走馬燈のような、舞台ならではの魅力が圧縮された場面だった。

ただ芝居の始めと終わりに組み込まれた日常トークの意味は、ちょっと謎だった。これから芝居の世界をむかえるワクワク感を損なってしまうし、せっかく劇中の少女や父親の存在を自分なりに受けとめているときに、誰かの子育ての話は興ざめするだけだと思う。