大井川通信

大井川あたりの事ども

砕けるような祈り

世間では、桜の花盛りである。ぼうっとした薄いピンクの雲がまちのあちこちに広がっている。公園や道路などの土地の造成で、そこら中に桜を植えすぎている気さえする。村里の遠景に、桜が一本目をひくくらいの方が、なんだか好ましい。

夕方、大井川の岸辺を歩いて、村の賢者原田さんを訪ねる。原田さんの仮寓する民家の隣の薬師堂には、見事な桜の古木が花を咲かせているが、それもすでに夕闇に沈もうとしている。焼酎黒霧島の紙パックを持参すると、夕食後だという原田さんは、さっそくコップについで美味そうに飲み始める。

若いころ、修道院に10日ばかり滞在していたときの話。そこの神父の祈りはいやらしい感じがして好きでなかったが、無口な修道士がいて、その人の祈りの姿が良かったという。まさに「くだける」という様子だったと。

人間は他者からの視線や評価に骨がらみになっている存在だ。日常のふるまいはもちろん、修行や祈りでさえも、どこか観客を当て込んでいる。無心に「神」に身を投げ出す修道士の祈りを、原田さんは、世俗的な我が身の統一が砕け散ったものと感じたのだろう。

原田さんの言葉を反芻しつつ、満月に照らされて家に帰る。