大井川通信

大井川あたりの事ども

『夏の花』 原民喜 1947

『夏の花』三部作といわれる「壊滅への序曲」「夏の花」「廃墟から」の三作を収録した集英社文庫で読む。

「壊滅への序曲」は、前年に妻を亡くして実家に疎開してきてから、原爆投下の直前までの様子を描く。時期的には最後に書かれたものらしく、作者をモデルにした三男以外にも、長男や次男の視点、原爆投下後の未来からの視点を使って複雑に構成されているが、ぎくしゃくしてややわかりずらい。「夏の花」は原爆投下前後の惨状を描き、「廃墟から」は市外に逃れたあとの体験をつづっている。どちらも、一人称の手記であり、不意に尻切れとんぼで終わったり、途中で文体が変わったりする不整合を見せている。しかし、これがかえって断片化された経験の生々しさを伝えているようだ。

文庫本の解説者は、「壊滅への序曲」を小説的な構築力を示したものと絶賛しているが、少しピントがずれた評価の気がする。小説の巧拙だけなら、おそらくこの作者は問題とはならないだろう。実際の記録ノートを元にした「夏の花」等は、フィクションかノンフィクションかの違いをこえた言葉の力をもっていると思う。

話はズレるが、僕は、「〇〇を許さない」「〇〇を許すな」という語法が嫌いである。この言い方は、自分の感情的な判断を一般化し、他者の心の内にまで押し広げようという傲慢さがある。かつてはサヨクの専売特許だったが、近ごろは元気になったウヨクも振り回しているかもしれない。(いや、ウヨクは基本的にいまだ素朴で粗暴だろう)

たいてい世間で言われる「許さない」というのは手段で、真の目的は、誰かに自分に都合のいい何かをさせることにある。「アベ政治を許さない」というスローガンは、現政権を倒すことが目的だから、政権を支持する人々には共感されるものではない。たんに、評価しないとか、好きでないといえばいいのにと思う。

 

「男であるのか、女であるのか、殆ど区別もつかないほど、顔がくちゃくちゃに腫れ上って、随って眼は糸のように細まり、唇は思い切り爛れ、それに、痛々しい肢体を露出させ、虫の息で彼らは横たわっているのであった」(84頁)

 

しかし、『夏の花』を読むと、ここに描かれた事実こそ、本当に許してはいけないものだ、と痛切に感じる。けっして何か別の主張のための手段とはならない、絶対的な許し難さ。主義主張を超えて、あるいは時代を超えて、その事実には許し難さの刻印がはっきりと押されている。そういう事実を十全に結晶化させているところに、『夏の花』という作品の普遍性があるのだと思う。