大井川通信

大井川あたりの事ども

ヒロシマノート

広島市内を、一日かけて一人で歩いた。新幹線の停車駅だから、何度も来ているような気になっていたが、実際に街を歩くのは、3回目かもしれない。それも駆け足で寄るといった程度で、一泊してじっくり見るのは初めてだった。

同じ九州ということもあって、長崎には、おそらく十回以上訪れて、何回となく宿泊している。同じ被爆地の長崎になじみがあるということが、広島にも通じているという錯覚を引き起こしていたのかもしれない。

実際には、ほとんど初めての街といっていい広島の印象は、しかし長崎とは大きく異なっていた。長崎は地形が複雑に入り組んでいて、街全体を一望することができない。しかも江戸時代の出島や寺院、幕末の外国人居留地時代の施設が点在しており、被爆地であるという以外の歴史が多層に見え隠れする。

一方、広島は、川の三角州に広がる平坦な近代都市で、広い道路が縦横に走っている。広島城はあるけれども、被爆以前の歴史につながる手掛かりにとぼしい。訪問者は、被爆建物被爆樹木に出くわしながら、現代的な街並みの薄皮一枚下にある被爆という現実と向き合い続けることになる。

原爆投下直後には、アメリカ側から、今後75年間、街の中心部には草木も生えないという報道があったらしい。実際にはそうでなかったとはいえ、今年ようやくその75年を迎えたばかりなのだ。

街を歩いていても、原爆ドーム近くの島病院付近の上空600メートルにある爆心点から、常時見張られているような気さえする。宿泊した高層ホテルの最上階のレストランで朝食を食べるときにも、ガラス越しに見える街並みの上空の不可視のその一点が気になってしようがなかった。75年前に、間違いなくそこから四方に熱線と爆風が噴出し、街と人をなぎ倒し焼き払ったのだから。

 滞在中に、原民喜の「夏の花」三部作を再読していたのも、そんな気持ちを起こさせる理由だったかもしれない。最後に立ち寄った幟町教会の世界平和記念聖堂のあたりが、偶然にも原民喜の生家の工場があった場所だと気づく。そこから、小説にもでてくる京橋(昭和2年6月竣工の銘板があった)を渡って広島駅まで歩き、新幹線で広島を離れた。