大井川通信

大井川あたりの事ども

生きているそのあいだ、なるたけ多くの「終わり」に触れておく

作家いしいしんじの言葉。鷲田清一の新聞連載「折々のことば」で知ったもの。

僕の実家は、動物を飼うことがなかった。庭で捕まえたセキセイインコを飼っていたことがあるくらいだ。そのセキセイインコも、僕が外でカゴをあやまって落としてしまい、逃げられてしまった。実家の屋根の上を必死で羽ばたきながら逃げていくそのインコの後ろ姿は、いまだに目に焼き付いている。

当時、父親はたしかこんな理屈を口にしていた。動物を飼うと、その死に目に会わないといけなくなる。どうせつらい思いをするなら、はじめから動物など飼わないほうがいい。父親は軽い気持ちで話したのかもしれないし、本当の理由は、生活に余裕がないというあたりだったような気もする。しかし、この理屈は僕の耳にこびりつき、身体にはいりこんでしまった。

どんなに表面的に親に反発したりしても、生活のベースとなる感覚や嗜好は、育った環境の影響下にあるのだろう。ペットを飼う話になったときには、僕は何度となく父の口まねをしてきたような気がするし、その理屈を疑ってこなかった。それは、この理屈の背景にある価値観を疑ってこなかったということだ。冒険や高望みをして日常を踏み外すことなく、欲望をコントロールしてつつましい生活を送るのが正義なのだ、と。

いまさら、それを大きく変えることはできない。ただし「終わり」は否応なしに迫ってくる。せめて「終わり」に向き合う態度だけは、そっと方向転換しておきたいと思う。

『お目出たき人』 武者小路実篤 1911

武者小路実篤(1885-1976)の二十代半ばの作品。付録として五つの小品を収録した出版当時と同じ内容で、新潮文庫に収められている。

手記の形をとった一人称の文体だが、実にストレートで主人公の思いを自在に、くもりなく語っている。今読んでも、少し言葉使いが古びているという不可抗力の部分をのぞいて、表現内容が直に伝わってくるような透明度の高い文章だ。いきなり「自分は女に飢えている」というフレーズが繰り返されて驚かされるが、露悪的な効果をねらったのでなく、あくまで自己を客観的につづった理詰めの文体であることがわかる。著者は、この7年後には「新しき村」の建設を図るなど多方面で活躍し、生涯に何百冊もの本を出版しているが、その原動力になったのが、この平易な思考する文体であることが想像できる。

主人公は、近所の顔見知りの少女に恋をして、実際に話す機会も持たないのに、勝手に理想の伴侶だと思い込んで、知り合いを介して結婚を申し込むが、先方の家からはいい返事がもらえない。その間の気持ちの高揚や揺れが事細かに語られる。時々、相手の通う女学校の付近をうろついたりするのだが、偶然出会った時などは、目を合わせただけで相手が自分と同じ気持ちであると思い込んで有頂天となる。しかし、この独り相撲は、相手の女性の結婚によってひとまず終結する。

今だったら、主人公の態度は「ストーカー」だの「童貞」だのとさんざんこき下ろされるところだろう。僕自身は、昔気質で不器用な方なので、むしろ主人公に同情して身につまされるところが大きいが、彼の女性に対する態度にほめられるべきところがあるとは思えない。しかし笑うべき振る舞いの内側にいながら、それを自己分析して「お目出たき人」と自己批評しつつ、しかし自らの肉体から離れないという文体は、ただものではない。生活しつつ、同時に思考する文体とでもいおうか。

主人公の振る舞いは、時代の慣習にとらわれたこっけいなものに見える。しかし、男女関係がどんなにスマートになっても、恋愛はこっけいな幻想を免れない。主人公の身体をはった思考は、現象の表皮を突き破って、恋愛の幻想の生きた本質をつかまえているようだ。

「お目出たき人」の主人公が書いたものと注釈された付録を注意深く読むと、自己中の失恋男を描いて能天気に擁護しているかのような著者の、意外な思考の幅広さと徹底性に気付くことができる。「二人」では、実際に結ばれなかった理想の男女の間には「無意識の共鳴するあるもの」が永続するとしているが、これは「お目出たき人」がおめでたいままにたどりつく思考の極限だろう。「無知万歳」では、「お目出たき人」の未来を知る神々の視点から、彼の徹底して散文的な将来の現実が明かされて、彼のおめでたさがそれらへの「無知」に基づくことが無慈悲に暴露される。「生まれなかったら?」では、そもそもお目出たくあるための根拠である「自分」という存在が、疑いにかけられる。「亡友」では、若死にする友人という設定で、切実な死の前で、お目出たい恋愛感情がどう化学変化するかが考察される。「空想」では、表現行為の支えとして、お目出たい幻想が不可欠であることを印象的に描く。

こうしてみると、この小説は、お目出たさ(自己本位の恋愛感情)の徹底解剖という様相を呈している。この具体的な作業を通じて、著者はお目出たさという観念の閉域から一歩抜け出すことができたのだろう。

 

 

地下鉄サリン事件23年(事件の現場5)

1995年は、日本社会にとって大きな転換点となった年だといわれているが、僕にはそれに個人的な転機が重なり忘れがたい年になった。

1月に阪神大震災が起こり、戦後の平和な社会の中で、大都市が破壊される姿を初めて目の当たりにする。世間がまだ騒然としている中、3月20日に地下鉄サリン事件が発生し、さらに戦後社会への信頼(安全神話)に大きな亀裂を生じさせた。このあとマスコミは、数カ月オウム一色となる。

ところで、地下鉄サリン事件の一週間前に長男が生まれたため、長男の成長がそのままこの事件からの時間的な距離を表すことになった。長男も昨春社会人になって、巣立っている。月日が経つのは本当に早い。

(すでに90年代初頭には冷戦終結やバブルの崩壊によって、戦後の成長神話に陰りが見えたのだが、90年代後半には、大企業の倒産が相次いで、後に「失われた10年、20年」と称される社会の変化を否応なく実感することになる)

6年ほど前に一連のオウム裁判が終結したタイミングで、特別手配犯の3人が相次いで逮捕されたために、オウム事件スペシャル番組の放送や書籍の出版があった。それをきっかけにして、僕もオウム関係の本などを読み返し、勉強会で自分なりの報告をしている。今回は逃亡犯の裁判も含めて全て終了し、死刑囚の移送が行われたというニュースも伝わっている。麻原らの死刑が執行されると、その時がこの大きな事件を回顧する最後の機会となるかもしれない。

昨年読んだ東浩紀の『観光客の哲学』では、社会の数学的モデルをつかって明快に新たな連帯の戦略を示していて刺激を受けた。その中に「世間の狭さ」についての理論的な説明がある。ふだん漠然と感じてはいても、理屈の問題ではないと思っていたので、虚を突かれた感じだった。「六次の隔たり」という仮説では、わずか六つの友人関係を経由することで、人類全体にたどりつけるという。

意外なことに、オウム真理教の教祖麻原彰晃と、僕は三次の隔たりでつながっている。僕の姉の職場の親しい同僚二人が偶然通ったヨガ教室の先生が、麻原だった。姉によると、彼女たちはヨガのとてもいい先生がいると話していたらしい。二人はやがて教団の幹部になり、姉の短大の後輩でもある一人は教団ナンバー2ともいわれ、麻原の子どもを産んでいる。

そんな因縁もあったためだろうか、事件のあった夏には、帰省時にレンタカーを借りてオウム真理教の本部のあった山梨県上九一色村を訪ねている。警察官や立ち入り禁止の表示が多く武装解除されたような村で、遠く草原越しに、サリン製造工場といわれた「第七サティアン」をながめることができた。幹部の刺殺事件のあった青山の東京総本部にも行ってみたが、ものものしい警備が続いている様子だった。

当時聞いた説法の録音で、麻原は「人は死ぬ」「絶対死ぬ」という言葉を繰り返していた。そうして死を乗り越えるためには、自分たちの教団に帰依するしかない、というわけだ。現代の社会が死の問題を隠蔽し、それが経済的・技術的に処理しうる問題であるかのように語る空隙を突いているとはいえるだろう。しかしこうした宗教も、偽りの物語によって死そのものから目をそらさせるものでしかない。

宅老所よりあいの村瀬孝生さんが語る死の思想は、個人の老いの果ての死までの時間にじっくり付き合い、その人らしさを最後まで大事にする手だてを尽くすというものだ。人の死についてわかっていること、そうして死についてやるべきことはそれだけなのだと。これは、僕には人間の死に対する態度として、もっとも深遠なものであるように思える。 

『認知症をつくっているのは誰なのか』 村瀬孝生・東田勉 2016

二年前、「よりあいの森」を見学した時、買った本。ようやく読了した。村瀬さんの講演を聞いたばかりでもあり、本の内容は、頭にしみ込むようによく了解できた。

この本を読むと、介護の問題や認知症の問題、薬害の問題がよくわかるし、それが相当に良くない状況であることを理解できる。だから、共著者の東田さんも、末尾に文章を寄せている三好春樹氏も、その文章によると宅老所よりあいを始めた下村さんも、かなり怒っている。怒るべき現実に直面しているときに怒るのは当然だ。この本の中で、村瀬さんも、お年寄りが様々な現実に怒るのが当然だとして、怒りや混乱に付き合うことが大切だと話している。(ところで、村瀬さんは、教育の世界などでよく使われる「寄り添う」という言葉を使わずに「付き合う」といっている。僕は前者のねっとりとした語感が嫌いなので、対等の人間同志の実際のありようを示す後者がずっといいと思う)

ただ、社会問題や不正に対して怒る人の中には、それへの批判にのめりこんで、敵と味方を区分けし、怒りや許さないという気持ちを共有しろと他者に迫る人もいる。特に批判が運動になったときにはその傾向が出がちだ。村瀬さんは、共著者たちとほとんどの認識を共有しているようだが、怒りのトーンがだいぶ低い。村瀬さんもかつては怒っていたのかもしれないし、現在でも内面では怒りの炎を燃え上がらせているのかもしれない。しかし文章からはそれがうかがえないし、実際に話を聞いてみると、怒りどころか「自我」の手ごたえすら感じられなかったりする。それはなぜだろうか。

村瀬さんは、時間と空間のズレが起きてしまったお年寄りが、自分の主観の世界を生きながら、長年培った習慣と分別でそれを乗り越える姿を尊重する。それがお年寄りの生活なのであり、その生活ができるだけ続くようにするのが支援だという。お年寄りは自分の思い通りにならない現実と折り合いをつけているのだし、支援する側も、自分の思い通りにはいかないお年寄りの姿に付き合うことになる。そういう現場に、村瀬さんはきっと深々と身を沈めてきたのだろう。

ここからは思いっきりの空想だ。かつてない高齢社会の到来と、コミュニティや家族の崩壊という史上初めての事態に直面して、日本社会は混乱し、それと折り合いをつけるために従来の分別でなんとか対応しようとしている。そこには様々なほころびが生じるし、それを声高に批判することは可能だろう。しかし、村瀬さんはお年寄りに対するように、この社会の泥縄式の思考錯誤にたいして、根気よく付き合おうと腹をくくっているのではないだろううか。老いていく、この社会への支援として。

 

へびゴマの謎

子どもの頃、行きつけの駄菓子屋「おっさんち」で手に入れたオモチャの中で、忘れられないのがへびゴマである。簡単なのに、その見事な仕掛けに感激したのだ。

鉄の軸にブリキの円盤がついた何の変哲もない小さなコマ。回しても何もおきない。ただし付属品の小さなブリキのへびを近づけると、コマの足元で、へびが前後にくねくねと、まるで生きているように動きだす。種明かしをすると、コマの軸が磁石になっているのだ。軸にくっついたブリキのヘビは、軸の回転によってなめらかに前後に動かされる。

それが小さな地味な紙の箱に入れられて、一個数十円で売られていたと思う。店に入って、左側の壁面の手前の高いところに吊るされていたことまで、覚えている。たぶん、おっさんちの定番商品ではなかったのだと思う。当時すでにカラーの台紙に貼り付けられたプラスティック製のおもちゃが主流な中で、それは異質な外国のオモチャのようだった。そんなに大切なものなら、保存しておけばよさそうだが、どうしてか失ってしまった。それ以来、大人になってからも、駄菓子屋に入っては、生き別れた家族みたいにへびゴマを探していた。

実は、長い間、へびゴマという名前も知らなかった。今から十数年前に、ふと思いついて、コマ、ヘビという検索ワードで探すと、独楽や遊びの専門サイトで、一般的な名称を知ったのだ。そのあとだと思うが、ついに駄菓子屋で、プラスティック製の大振りのへびゴマ売られているのを見つけた。うれしかったが、やはり今どきのオモチャ風なのが気に入らない。本体がUFO仕様で、宇宙を模した楕円形のブリキを動かすコマも手に入れたが、やはりピンとこない。

今回久しぶりに検索すると、資料をプリントアウトした2006年に比べて、へびゴマの情報があふれている。00年代中頃以降の「情報爆発」は本当だな、と感心する。駄菓子屋で手に入れたのと同じプラスティックのへびゴマが今も流通しているようだ。回転の様子を映した動画まで何種類も見ることができる。

その中に、コマの仕様といい、黄色っぽい箱の「made in japan」の文字といい、 まちがいなくあの時と同じものだと確信できるへびゴマの動画があった。英語がわからずに、ずっと外国製と思っていたのだが、輸出用の製品だったのだろう。昭和30年代の製品と説明されているから、僕が購入した時より、いくらか古い年代のものになる。想像をたくましくすれば、おっさんがデッドストックの商品を安く仕入れてきて、一時的に店頭に並べていたのかもしれない。

 

『箱男』 安部公房 1973

学生の頃読んだときは、初期の作品が好きだったこともあって、よくわからないという印象だった。今回は、興味をもって読み通すことができた。

手記やエピソードの断片をつなげた形になっているのだが、読み進めることで、断片が組み合わさって、明確な物語の像を結ぶ、というようにはなっていない。個々のピースは、お互い離反するような力が働いている。誰が書いたのか、どこまでが事実でどこからが妄想かもはっきりしない。しかし、むりやり物語のアウトラインを抽出するとすれば、こんなふうになるだろう。

段ボール箱にこもって生活する男(箱男)が、空気銃で撃たれて負傷する。見知らぬ女からお金をもらい病院にかかると、その医者が狙撃手で女が看護師だった。そこで女から、箱を買い取りたいと申し込まれる。実は、その医者は偽医者で、戦争中上官だった病気の元軍医を助けて、看護師の女と三人で同居生活をおこなっていた。偽医者はこの生活を解消するために、元軍医を殺害し、事故死した箱男に見せかけることを計画する。そのため本物の箱男の存在を消す必要があったのだ。

作品が発表されたのは、1973年。オイルショックの直前で、戦後の社会が大きな曲がり角に差し掛かる時期にあたっている。近代社会が、ポストモダンと呼ばれる消費や情報を中心とする社会へと舵を切る直前の時代だ。30年前の戦争の記憶が、エピソードとして自然に語られているのが、新鮮だ。戦争を経験した世代が、まだまだ社会の中心だったのだ。

個の空間への偏執。見ることのへ欲望。アイデンティティの希薄化と匿名の優位。大きな物語の解体。大量生産と偽物の時代。今から振り返ると、「箱男」という虚構は、ホームレスの段ボール生活という生々しい現実の似姿でありながら、新しい時代のリアリティを先取りする絶妙な立ち位置をもっているように思われる。

学芸会的な芝居について

知り合いに頼まれて、アマチュアの劇団がカフェでやる芝居を観に行った。ふだん小劇場の芝居しか観ないが、それも久しぶりだ。そういうものだと思って観たので、とくにがっかりしたとか、面白くなかったということはない。ただ、せっかくなので、そういう芝居とは何かを考えてみることにした。

まず、ストーリーに不自然な飛躍があって、わかりにくいし、入っていけない。とってつけたような話、というか、野球でよく言う、ピッチャーが「置きにいっている」ボールという感じがする。どうしても語りたいという物語でもなさそうだ。

次に舞台。ストーリーを、なんとか三次元に置き換えました、というだけで、舞台独自の魅力が見いだせない。ストーリ-が陳腐でも、目の前の舞台の時空に集中力と吸引力があれば、それに引き込まれるのだが。どうしても作りたいというシーンがあるわけでもなさそうだ。ところで、すぐれた芝居には、どんなシンプルな舞台でも、ゼロ記号(それ自体意味作用はなくとも、舞台を統率する強力な磁力をもつモノ)がある、というのが僕なりの発見だが、もちろん、そういうものも見つからなかった。

最後に役者。いろいろ理屈を言っても、しょせん目の前のヒトを見るのが芝居だから、そこに魅力がなければならない。もちろん光る部分もあるのだが、全体として水準を維持するのは難しい。

そして、観客。地方の小劇場の芝居では、関係者率がとても高い。演劇仲間という関係者と、知人友人親戚という関係者だ。今回は、地元の公立劇場の企画でもあるので、近くの席には、地元のドンみたいな有名な演出家の顔も見えて、ちょっと豪華だった。

「学芸会」の範疇を実質こえているのは、こんなふうに街の一角で、自主的に芝居を成立させている、というところだ。演劇を核として、人のつながりを組織し、それを波及させているところ。ありふれた雑多なものを糾合して、とにかく演劇をなりたたせて、そこに一回的な身体同士の突き合わせを実現すること。そのこと自体の価値が、僕にもわかりかけてきた。

ところで、舞台装置のほとんどない空間で、三本の短編のオムニバスの芝居を観たので、漫才とかコントとかいうものを連想した。ライブで観たことはないので、あてずっぽうになるが、例えば優れた面白いコントは、ストーリー(ネタ)の要素と、役者(芸人)の要素とが、決定的に強力で魅力的なのだと思う。すると、それと演劇を差別化するものは、舞台の要素の比重ということになるのだろう。

『「新しき村」の百年』 前田速夫 2017

武者小路実篤白樺派新しき村という言葉は、文学史の知識として頭に入ってはいた。しかし、新しき村が埼玉と宮崎に現存していて、今年創立百年を迎える、という事実には驚いた。この本は、武者小路実篤の人と思想、新しき村をつくった経緯、その後の歴史をわかりやすく描いていて、とても面白かった。とくに実篤の言葉が魅力的に紹介されており、ぜひ読んでみようという気持ちになる。

著者の両親は、戦前の新しき村の東京支部の活動を通じて知り合い、実篤夫妻の媒酌で結婚したことがさらりと触れられている。客観的な記述に徹したかったのかもしれないが、そういう個人史的な事実をていねいに書いた方が、村外会員として活動する著者の思い入れや立ち位置がもっと理解しやすくなったような気がする。

武者小路実篤の呼びかけは、とてもシンプルだ。各人それぞれが自分自身を完全に生かすことが可能であるような共同生活を実践し、それを全人類に広めよう、というわけだ。言葉のまっすぐさによって、新しい世代にも十分届くものだと思う。僕の住む大井川の近辺でも、規模こそ小さいが、それに近い思いで原田さんは村をつくっているし、地域を足場に活動するもっと若い人たちも、純粋な思いでは共通している。

しかし、本家の新しき村は、高齢化が進み、新しい参加者が途絶えたために、時代に対応した手だてが取れずに低迷した状況にあるようだ。著者は本の末尾で、難解な哲学的議論を使って村の改革を主張する人物に共感を示しつつ、新しき村の理念と将来構想を語るが、やや言葉が空回りしている印象は否めない。ポストモダンだのトポスだのという「気取った」言葉使い自体が、自分に正直なところを語る実篤の精神からそれているような気もする。

実際の人間が担う共同体は、企業体のように自己変革を繰り返して永続することは難しいし、世代的、文化的限界があって当然だと思う。実篤の言葉が若い人たちに再び広く読まれることもないだろう。ただし、実篤の精神は、それとは気づかれない形で、様々なコミュニティの活動の中に受け継がれていくと思う。

こんな夢をみた(原っぱ)

あれ、この原っぱ、もうつぶされて家が建っているんじゃなかったっけ?

久しぶりに帰省した僕は驚いて、実家のドアを開けて母親に聞こうとする。しかし、ドアに触れるよりも前に、僕にはその答えがわかったのだ。なるほど、そうか。実家は、ずいぶん前に改築しているはずだが、目の前の家は改築前の姿だ。それならば、隣の敷地の原っぱがもとのままなのも納得できる。

昔から、隣の敷地との間には塀や境界がなくて、雑木がまばらに生えた原っぱを、僕の家では自分たちの庭のようにして使っていた。家から出るごみを焼却する穴も掘ってあったし、木登りや、キャッチボールをして遊んだ。夏には蝉取りをして、秋にはクリの実をとって食べた。しかし、何年も前に、転売されて、小綺麗な住宅がぎっしり建てられていたのだ。

懐かしく思って、原っぱながめていると、草地に胸のあたりまで埋められて、こちらを見上げている人がいることに気づいた。テレビで見たことのある芸人のようだがよく思い出せない。僕は、そのあたりに、子どものころ、グリコのおまけの鉄人28号を埋めたまま失くしてしまったのを思い出した。せっかくなので、聞いてみる。「あの鉄人のおまけ、どこにいったんでしょうね」

彼は埋められたまま苦しそうに首を回して、あたりを見回す。彼の視線の先に、原っぱのはずれで遊んでいる子供たちの姿があった。彼は答える。「鉄人は、こどもたちの心の中に生きているさ」

僕はしらけて、それはないだろうと思った。しかし、思ってもいないお世辞を口にしてしまう。「それ、メモしてもいいですか」  (2013.12.24)

春が来た

何度も寒波に押し戻されながら、とうとう春がやってきた。

昨日初めて林のなかから、つっかえつっかえのさえずりを聞かせてくれたウグイスも、今朝はいくらか上手に「ホケキョー」と鳴いている。遠くのやぶから、ちょっとこい、ちょっとこい、とコジュケイの声も聞こえてくる。

道ばたのスズメも一回り大きくなったようで、胸を反り返していばっている。朝、玄関を開けると外でカササギが二羽、激しい口調で鳴きかわしていた。すると通勤途中の道の電柱の真上に、いつのまにか木の枝で直径一メートルくらいの球形の巣をつくってある。カササギが天然記念物になっていないこの地域では、やがて電力会社の人に巣を撤去されてしまうのだろうけれど。

車のフロントガラスに一瞬に、何かがひるがえる飛影が映る。ツバメだろうか。見間違いだとしても、一週間後には、街中でふつうに出会えるはずだ。