大井川通信

大井川あたりの事ども

日めくりをめくって

「皆様、明けましておめでとうございます。皆様も、新年に抱負を持たれたかと思います。私は、小さいことですが、毎日朝一番に日めくりカレンダーをめくることにしました。

日めくりには、その日のことわざが書かれています。今日は、『頭が動かないと尾が動かない』とありました。これは、魚の泳ぎをイメージして、身体のそれぞれが役割を果たさないと、全体として前に進まないということだと思います。私たちの組織でいえば、各人がそれぞれに責任をもってリーダーシップを発揮する必要があるということでしょう。

ところで、私たちの業界では、『不易と流行』ということがよく言われます。近年では世の中の動きが加速していますから、ともすれば保守的、守旧的になりがちな業界の体質に対して、新しい時代の流れに敏感でなければいけないという戒めの意味で使われることも多いかと思います。私たちの組織は、その業界の動きにすら取り残されがちという問題をかかえています。

では、どうすれば新しい時代の流れをとらえることができるのか。広い視野の『鳥の眼』と現場を見すえる『虫の眼』とを持つことが必要ですが、近ごろは、さらに『魚の眼』が大切だと言われています。魚は、巧みに潮の流れを読みながら泳ぐ生物ですから。

私たちも『頭』と『尾』が一体となるように自在に泳ぎながら、時代の潮流を的確にとらえる『魚の眼』を持ちたいと思います。本年もどうぞよろしくお願いします」 ※仕事始めの挨拶(骨子)

 

 

 

ちくわぶ(竹輪麩)の味

玉乃井に年始の挨拶にうかがって、安部さんと東京の食べ物の話になった。安部さんは、初めは苦手だった納豆も食べられるようになったが、ちくわぶだけはだめだった。あんな不味いものはないという。

僕はショックを受けた。子どもの頃、実家のおでんの具の中で、一番美味しくてたのしみだったのが、ちくわぶだったからだ。そういえば、東京を離れてからちくわぶを食べたことがない。東京ローカルの食材であることも知らなかったのだ。

ちくわぶは、小麦粉をちくわのような円筒形の形にこねて、ゆでたものだ。ちくわよりも太く、外側に歯車のようなぎざぎざがついている。発祥には諸説あるようだが、高価な魚のすり身を使う竹輪の代用品、というのがわかりやすい。ただ子どもたちには、味に癖のあるちくわよりも、もちもちした触感で、おでんの汁の味がよく染みた「代用品」のちくわぶの方がずっと人気があったと思う。

ところで、「おそ松くん」のキャラクターチビ太が持っているおでんの串には、上から三角、丸、四角の具材が刺さっていて、一番下はぎざぎざ入りの円筒形だからちくわぶに見えるのだが、残念ながら真相はナルトのようだ。

すいとん(だんご汁)に入った小麦粉のだんごが、おでんのちくわぶと味や触感が似ている。そのためか僕はだんご汁の店には入ってみたくなる。ところが、妻は父方の田舎で、まずいだご汁(九州ではそう呼ぶ)を食べさせられたトラウマから、だんご汁を受け付けない。僕のちくわぶへの郷愁はつのるばかりだ。

 

 

 

 

 

 

『死の淵より』 高見順 1964

昨年は、現代詩を義務的に読むことをしてみた。それで詩を読む習慣を、ほとんど学生の頃以来久しぶりに取り戻せたような気がする。今年は、さらに自由に詩を楽しんでみたい。あんまり目くじらを立てずに、肩の力を抜いて。

高見順(1907-1965)は、昔から好きな詩人だ。本業が小説家だから、変な詩人の自意識がなく、表現も単刀直入でわかりやすい。それでいて、比喩は鮮やかで深い。

犬が飼い主をみつめる/ひたむきな眼を思う/思うだけで/僕の眼に涙が浮ぶ/深夜の病室で/僕も眼をすえて/何かをみつめる (「みつめる」)

日当たりのいい/しあわせな場所で/車輪が赤く錆びて行く/小さい実がまだ熟さないまま枝から落ちたがっている/球根がますます埋没したがっている(「車輪」)

全編を再読してみて、この短い2編が二重丸だった。身もふたもなく言ってしまえば、前者は「神」を、後者は「悪魔」を、不在のまま指さしている。全44篇中、引っかかりを感じたのは18篇。やはり4割2分の高打率だった。

ただ今回愕然としたのは、戦前の左翼運動からの転向と従軍活動、戦後は日本近代文学館設立に奔走し、たくさんの作品を残して、ほとんどやるべきことをやりつくしたような作家の逝去の年齢が、今年の自分と同じということだった。人生の密度の差というのは恐ろしく、残酷だ。

亡くなった父の書棚にも一時あった詩集で、「青春の健在」と「黒板」の二編は父親の朗読を聞いていて、今でもその声が耳に残っている。二つともよい詩だ。「黒板」では、中学の英語教師の毎回の授業の最後の姿を思い出して、あんな風に人生を去りたいと詩人はうたう。「すべてをさっと消して/じゃ諸君と言って」

父親は交通事故の後遺症で寝たきりで3年間苦しんだ後、この世を去った。当時はとてもそんな風に見られなかったが、今から振り返ると、「黒板」のようなきれいな別れ方だったと思う。

 

 

年賀状がこわい

いつの頃からか、年賀状が恐ろしくなった。誰に出すべきなのか、何を書くべきなのかがよくわからない。いや、考えればわかる程度のことだが、それを考えるのがおっくうだ。

パソコンで作成するようになってからは、作り出したら一晩で出来てしまうほど手軽になったのにもかかわらず、年末にとりかかれずに年を越すこともしばしばだった。ずいぶん前だが、帰省に間に会わず、東京で作成するために重いワープロを泣く泣く引きずって持ち帰ったこともあった。

そのかわりいったん作り出すと、妙に文面に凝ってしまい、プライベートや自説に踏み込んで、気取ったことを書いてしまう。正月そうそう、受け取る側はそんな「個性」など迷惑だろう。

広い意味での社会性の障害、例の「積極奇異」という類型の発露なのだと、今なら思う。儀礼的、習慣的な社交にうまくなじめず、逃げ出したくなる。その一方、いざその場に臨むと、積極的に目立つふるまいをしてしまう。

そんなわけで、年末が近づくとどこか憂鬱な気分になった。また、その年の正月の自分なりの評価も、年賀状の手際に左右されることになった。年末早くに出せたのか、年を越したのか、返事すらままならなかったのか。

しかし、次男を育てる中で、年賀状は、もっと実際的な役割をもつようになる。知的障害のある次男にとって、お世話になった人々のつながりはとても大切だ。学校の先生や学生ボランティアの人たちとの関係を切らさないために、写真入りの近況報告を年賀状で毎年送るようにしたのだ。本人にも一言書き込ませて。

これは、今年二十歳になる次男のために僕が父親としてやれたことで、唯一自慢できることかもしれない。多少「積極奇異」の気があろうと関係ない。これだけは地味に真面目に送り続けた。

ところで、こんな年賀状の怖さから、ついに解放される日がやってきたのだ。これからは(次男のための近況報告をのぞいて)積極的に賀状を出さない。返事が必要な分だけをあっさりと書く。そんな一大方針転換を、年が明けてから成り行きで思いついた。実際そうすると、数年でほとんど儀礼的な賀状交換は消滅してしまいそうだ。

なんだかあっけない。店じまいを意識する年齢だからできることかもしれない。しかし、長年にわたる逡巡と懊悩はいったい何だったのか、とあらためて思う。

 

家族の人形と猫の人形

今年も、筑豊山中で正月に開かれる木工の展示会に行ってみた。そこで小さな猫の人形を購入する。展示室の隅に置かれた試作品のようだったが、ご主人の内野筑豊さんに頼んで売っていただいた。

我が家には、十数年前に内野さんから買った家族の人形がある。こけしのような頭と胴体だけの造形のたくさんの人形の中から、思い付きで家族それぞれの特徴や雰囲気に似ているものを四体選んで、家族に見立てたのだ。

今は子どもたちも身体が大きくなり、子どもらしい雰囲気も無くなってしまったけれども、この四体の人形を見ると、当時の家族の様子がありありと蘇る。不思議なことだが、当時の家族写真以上にリアルな家族そのものに見えるのだ。

「見立てる」という行為の力だろうか。時間をかけてそう思い続けることで、各人の個性や魂のようなものが転移したのかもしれない。並べられた四体の人形同士が、家族のきずなのようなものを育んだのかもしれない。

そこに年末に迷い込んできた子猫の人形を加えたかった。子猫見たさに長男が早めに帰省したこともあって、猫を中心にひさしぶりに和やかで楽しい家族の時間を過ごすことができた。妻も三人目の育児のつもりではりきっている。

四体の人形が取り囲むように猫の人形を置くと、同じ内野さんの作品だけあって、ぴたりと決まる。あちらの家族も、新たなメンバーの登場に本当に楽しそうだ。

あちらの。そう、もはや彼らは、僕らの手の届かない別の世界の住人にさえ見えるのだ。

 

ひろちゃんとため池

大井のひろちゃんの家に夫婦で年始の挨拶にうかがう。ひろちゃんは、庭で小魚や野菜を干す作業をしていた。体調を崩していると聞いていたが、思ったより元気そうで安心する。

ひろちゃんは昭和16年生まれで、大井川歩きでは、僕の師匠のような人だ。もう5年前になるが、ヒラトモ様への参拝がきっかけで、ひろちゃんと知り合った。ヒラトモ様に通じる道のわきに、ひろちゃんの畑やニワトリ小屋がある。たまたまそこにおくさんが出ていたので挨拶すると、主人がヒラトモ様に詳しいから寄っていきなさい、と誘ってくれたのだ。その後、小学生のひろちゃんがお父さんに頼まれて町までお酒を買いに行く話を、夫婦で手作り絵本にして渡したりもした。

日差しの暖かな縁側で、お茶をいただきながら、いつものように話をうかがう。モトギ村からお嫁に来た自分の祖母のことが気になって、調べているという。30歳の時に3人の子どもを残して、身投げをしたらしい。凄惨な話だが、昔の村にはそういう事実が埋もれているような気がする。近くには大きな川もないので、身投げという言葉に僕がいぶかると、ひろちゃんがため池だったと教えてくれる。

そういえば、僕の住む住宅街にも村の古いため池があって、鉄のフェンスに囲われているが、ひろちゃんは子どもの頃、そこで泳いで遊んでいたという。記録を見ると、たくさんのため池が17世紀の江戸時代につくられているが、水利に乏しい地域では、ため池はとても身近な存在だったのだろう。

ひろちゃんの家のすぐ近くにも、マスマル池というため池がある。昨日ヒラトモ様への初詣の帰り、水抜きされたマスマル池を観察して発見したことを僕が話す。ため池の崖下に、斜めに伸びる黒光りする地層を見つけたのだ。高さや角度からいって、かつて大井炭鉱が採炭したのと同じ石炭層のように思える。ひろちゃんも僕の「発見」に同意してくれた。昔は、近くに泥炭を採取する場所もあったそうだ。

帰り、ひろちゃん自家製のはちみつの瓶をお土産に渡される。大井に咲く花々の蜜をいただけると思うと、とてもうれしい。

 

 

 

 

 

平知様と「知盛の最期」

平知様(ヒラトモサマ)は、大井川歩きの聖地にして原点だから、初詣を欠かすわけにはいかない。里山のふもとまで車で移動し、足をいたわりつつ標高120メートルの頂上を目指す。途中、倒れた竹を押し分けながら、前に進む。この荒れ方では、今後は参拝も難しくなるかもしれない。

イノシシが怖いので、杖で両側の竹や木を打ち鳴らしながら山道を進む。雑木林の急な斜面をよじ登ると、目当ての場所にホコラが見当たらない。やや離れた場所に見つけて、ほっとする。道のない雑木林は錯覚をひきおこしやすい。

いびつな大石を屋根に置いた野趣にとんだホコラの姿はそのままだ。大小の木の根が立てかけられた様子は、初見の人には異様だろう。周囲には大きな石が散乱していて、ここが古墳の跡であることを物語っている。この峰に沿って、いくつもの円墳の石室が露出しているのだ。

老樹が枝を伸ばしていて周囲は薄暗いが、ホコラのすぐ裏は切り崩されて急な崖になっているから、日差しが明るい。かつて村の境界に沿って、広大なミカン畑が開発されたためだ。今はその場所が、無機的な太陽光発電ソーラーパネルに置き換えられている。

新しいお酒の小瓶を献上して、新年のお参りをする。それから、文庫本の『平家物語』を取り出して、供養のために有名な平知盛の最期の場面を大声で朗読した。このホコラには、無名の豪族の墓が明治以降、平氏の武将の墓として喧伝され、戦争の時代に「平知神社」として戦勝祈願の信仰を集めた歴史があったのだ。

今でもまつられている鋭利な木の根は、戦時中、お礼参りに木剣を納めた記憶に基づくものだろう。敗戦後、平和の時代となって、史実に基づかない急造の神様は、軍国主義の遺物として山中に打ち捨てられることになった。

平家の興亡を見届けた平知盛の言葉(「見るべき程のことは見つ」)は、里山の山中から村の近代の歴史を見続けた平知様の心情を代弁したものであるようにも思えた。

 

自転車で初詣

歩きを控えなければいけないので、自転車で初詣に出かける。

和歌神社、水神様、大井始まった山伏様にお参りして、村はずれの観音堂と大クスに挨拶しているときに、町内放送が鳴る。和歌神社の新年会の参加の呼びかけだ。

宗像大社までの車道には、すでに車の長い渋滞ができている。集落沿いの小道を自転車で快調に走る。宗像大社にはすでに参拝客が大勢いた。しかし元日の朝8時半にしては、それほどの人の出ではない。

一昨年の宮司殺人事件で富岡八幡では初詣客を大幅に減らしたときく。交通安全を売り物にしている宗像大社神職が、先日飲酒運転で逮捕され免職になった。そんなことがじわじわ効いているのかもしれない。

世界遺産の登録によって、昨年から境内の夜店の出店に制限をかけたらしく、それもさみしい。北海道を拠点とする名店「東京ケーキ」の名物女将の姿は今年もなかった。

釣川を渡って、鎮国寺にも足を伸ばす。こちらは初詣客もまばらだ。真言密教のお寺で、山伏とのかかわりも深い。本堂の中で僧侶が、参拝客にまじないのような術をかけているのが面白かった。門前の民家の垣根にジョロウグモの姿を見つける。零度になるような冷え込みのなか、年を越したのはえらいものだ。

帰り道、老人ホーム「ひさの」に寄って、年始の挨拶をする。ミーティング中の好さんが、うちは年中無休ですよと笑いながら顔を出してくれた。103歳のハツヨさんもお元気だそうだ。

途中、地元の人が神職を車に乗せて案内する姿を見かける。おそらく各地区の氏神の祭礼をかけもちしているのだろう。元日は大忙しだ。

やはり、同じ車輪を使っていても、自転車は自動車よりもはるかに土地とのつながりが強く、自然や人々との対話の道具となりうる。多少節を曲げることになるが、今年は自転車を活用して、地元をまわることにしよう。

 

『年末の一日』と佐藤泰正先生

芥川龍之介に『年末の一日』という短編があって、この時期になると読み返したくなる。自死の前年の1926年に発表された私小説風の小品だ。

新年の文芸雑誌の原稿をどうにか仕上げてお昼近くに目覚めた芥川は、知り合いの新聞記者とともに、没後9年になる漱石の墓参りに出かける。しかし雑司が谷の墓地では、よく知っているはずの漱石の墓がなかなか見つからず、芥川はわびしい気持ちになる。記者と別れた後、坂道で休んでいる人夫に声をかけて、自分自身と戦うよう一心に胞衣(えな)会社の荷車を押し続けた。

これだけの話だけれども、ある時佐藤泰正先生(1917-2015)の話を聞いて、忘れがたい小説になった。佐藤先生は、長く山口の梅光女学院(のちに梅光学院)大学で教えられた日本近代文学研究の権威で、クリスチャンだった。

独身の頃だから、今から20年以上前だったと思う。アパートの近くの小さな教会で先生の講演があるという新聞記事を見て出かけたのだが、教会だから聖書を読む礼拝もあって戸惑ったのを覚えている。

先生はそのとき芥川の話をした。芥川は学生時代、漱石から「人間を押せ」と教えられていたにも関わらず、「文士の才」をむなしく押し続けた。『年末の一日』で漱石の墓にはぐれてしまい、胞衣(えな)という胎児を包む膜や胎盤、つまり命の抜けがらが載った荷車を押す姿には、芥川自身の自嘲と悔恨が現れているという話だったと思う。(この解釈は、後に出版された先生の芥川論で読むことができた)

この鮮やかな解釈を聞いて、文学を読み込むということの凄味を目の当たりにした気がした。当時先生はすでに70代半ばだったはずだが、若々しく情熱的だった。

その後、公開講座などで、漱石遠藤周作、現代詩について何度か講演を聞く機会があった。吉本隆明山口昌男の講演会でも、先生が主催者挨拶をされていた。振り返ってみると、法学部出身の僕には、文学に関する確信をもった言葉に触れる機会は、佐藤先生の講演以外にはなかったような気がする。

先生の訃報に接したのは数年前である。ご冥福を祈りたい。

 

 

こんな夢をみた(出オチ)

大きな校舎のような建物だった。僕はある課題を与えられた。一つの部屋に様々な小道具が置かれている。それを自由に使って、別室で待つ人たちの前で、何か面白いことを演じないといけない。

初めは少し複雑な設定を考えていたのだが、直前になってそれを取りやめ、もっとシンプルにいくことにした。しかしそのためには、真っ赤な輪のようなモノが必要だ。その部屋には、小道具を探すお手伝いをしてくれる女性がいるのだが、なかなか見つからない。僕はようやく、やや地味な赤色のリングを見つけて、会場に出向くことにした。

何かのコンクールやワークショップの課題だったのだろうか。その割には大した緊張感はなかった。その場の人に、余興を見せるくらいの感じだった。

そこは教室のようで、前の扉を少し開けると、部屋の前方から中央を空けて観客がぎっしり座っている。扉のすぐ目の前に演者のためのマイクが仕掛けてある。僕は、マイクに向けて出オチなのでそのつもりで見てください、と断りを入れる。

「タコがとれたぞー」と何回か叫んでから、右手の赤いリングを高くかかげて、会場に走り込む。舞台の中央まで来て、「タコ」をしっかりにぎったまま僕はうつぶせにばたりと倒れた。それだけである。これはさすがに受けなかった。

「なかなか新しいね」そういってくれる観客のつぶやきに、ちょっと救われた気になった。