大井川通信

大井川あたりの事ども

情報端末としての神々

以前のことになるが、初詣で渋滞する道路の脇に小さな神社を見つけた時、ご利益のある有名な神社の近所にわざわざ小社がある理由が腑に落ちなかったことをよく覚えている。やがて「大井川歩き」を始めて、村ごとに氏神や産土(うぶすな)といわれる村社をまつっていることを知ったが、さらに不思議なのは、その神社の境内に木や石で作られた小さなホコラがずらっと並んでいることだった。

後から調べると、その小さなホコラは、もともとは村のあちこちにまつられていたものを、明治以降政府の方針で、村社の境内にまとめられたものだったのだ。神道を国家で管理しやすくするためだったのだろう。

しかし、現在でも村には、薬師様や観音様等の小堂が要所にまつられており、地蔵の石仏や庚申様の石塔も道路わきにある。里山にも、由来の不明な石のホコラが身をひそめている。すると江戸時代には、村中にさまざまな神様があふれかえっていたことになる。各家々でまつる家や土地の神様を別にしても、50メートル間隔とかで、何らかの神仏が村人を待ち構えていたことになる。これはいったいなんのためなのだろうか。近代的な意味での支配という点でも信仰という点でも、そんな過剰な神々は不要だったはずだ。

前近代のムラやマチの共同体は、基本的には移動の自由がなく、狭い土地の中でのプライバシーのない息苦しい世界だった。文字通り、壁に耳ありふすまに目あり、人の口には戸は立てられない、という人間関係だったろう。そういう膠着した関係のみでは人間は生きられない。人々は、ムラのあちこちに用意された神々に向かって、グチを言ってストレスを発散し、祈ることで理想や夢に逃げ場を見出していたのだろう。

つまり神々という装置は、共同体の外の世界と交信する情報端末だったのだ。この外部への通路(穴)によって、かろうじて共同体の人間関係の圧力が緩和され、うまくメンテナンスされていたのだろうと思う。ムラの複雑な人間関係や利害に応じて、用途別に多数の神々=端末が必要だったのだ。

こう考えると、神社の裏手にひっそり並ぶ古いホコラの神々が、廃棄された端末の受像機みたいに見えて、少し切ない気持ちになる。