大井川通信

大井川あたりの事ども

巨石信仰いろいろ

職場の近くに小さな丘陵があって、古い時代の古墳や遺跡などがならび、一種の神域となっている。丘の入り口には、大きな岩が控えていて、岩自体も神様としてまつられているが、そこは熊野神社の境内になっていて、鳥居や立派な社がある。

そこから丘の上の雑木林や竹林、畑の中の小道を歩くと、突き当りに巨樹に囲まれた空き地があって、鳥居の奥に、ゴロンと投げ出されたような大岩がまつられている。入口の社とは別の神社の扱いだが、奥之院といった風情だ。

丘の周囲は、住宅や学校で埋め尽くされて、起伏の多い小道が囲んでいる。路地のような隙間から丘へと通じる通路がいくつも隠されていて、まるで迷路のようだ。

昼休みの散歩コースでこの迷路を楽しみ、巨石の神様にもお参りできるというのだから、僕のような趣味の人間には、本当にぜいたくな環境だろう。

地元の大井川周辺で、巨石を体験しようと思うと、直線距離でちょうど3キロメートル、標高270メートルの山の山頂付近まで歩かないといけない。先日、涼しくなって大井川歩きを復活させる弾みに、自宅からの往復に挑戦してみた。

あらためて見ると、断崖の上に乗り出したような巨岩で、下から見上げると十数メートルの高さに伸びあがった立石のようにも見えて、迫力がある。この岩の下にも古びた熊野神社の小さな社がある。巨石には熊野信仰が結び付けられやすいのだろうか。

山頂からは、なんとか肉眼でも我が家が確認できる。その7キロメートルばかり先の海岸線も一望のもとに見えて、海の近くに住んでいることを実感する。

巨石ではないが、ヒラトモさまの近くから拾ってきた岩の欠片をまつった自宅の小社は、意外にも僕の生活にはまっている。ガレージにあるから、朝晩、自然と目が行って、余裕があれば手を合わせるし、そうでなくとも一声かける。

考えてみれば、石ころといえども、そこには途方もない年月の営みが封印されている。僕らの人生など、彼らからみれば一瞬だろう。身近な神様の依り代として、これ以上ふさわしいものはないにちがいない。