大井川通信

大井川あたりの事ども

ミロク様発見から7年

7年前は大井川歩きを本格的に始め、大井川通信(紙版)を書き始めた年だった。1月20日里山でヒラトモ様を発見し、以後地元の方からの聞き取りや文献の調査などで、ヒラトモ様の概要を探るのに5月までかかった。そうして7年前の今日、力丸弘さんの証言から大井のまた別の神様を見つけることができたのだ。

この聞き取りをした時、力丸さんは奥さんと畑仕事をしていたのだが、この数年でお二人とも亡くなっている。何回かお訪ねした家には、両親の介護のために戻った息子さんが今は一人で暮らしている。

ミロク様についても、ヒラトモ様やクロスミ様を同様、僕なりに調査と推理を進めたのだが、まとめずに放置したままだ。多少とも知名度のあるヒラトモ様とは違い、山中の石のホコラの存在とそれがミロクを祀ったものであることを知る人は、もう地元にもいないかもしれない。僕もいつまでもさぼっているわけにはいかない。「発見」の興奮が伝わる当時の大井川通信(紙版)から引用する。 


紙版「大井川通信(その12)2014.5.20」から

力丸さんは、終戦の年、8月25日に神奈川の藤沢航空隊に入隊するところだったそうだ。戦争が終わり、自宅待機になったという。僕はいろいろな話を聞かせてもらって、この村で起きたことをできるだけ記録しておきたいのだとちょっと興奮気味に訴えた。
力丸さんは少し黙ってから、思い出したというように山の方を振り返って、向こうにミロク様というのがあると話し出した。枡丸の道の突き当たりから山にあがったところに古墳の石室のようなものがあって、それを祀っていたという。僕はお礼をいい、いつもの道でヒラトモ様に登るのをやめて、ミロク様を探すことにした。
以前は藪であきらめていたところだが、よく見ると人が歩ける小道がある。竹藪を抜けるとなだらかな斜面に植林が広がり、意外に歩きやすい。振り返ると、竹の葉が美しく日に輝いている。途中、大きめの四角い石が寄せてある場所があって、ここかもなと思う。
左側の沢が深くなり、小さな流れが滝のように崖を伝っているあたりから、右手の急傾斜を登ると、小高い峰の木々の中に、古びた石の祠がぽつんと置かれている。かなり整備されている山の中なのに、お参りされた形跡もない。ただ祠の背面に、「村中」という文字が刻んであるので、個人が置いたものではなく、かつては村で信仰していた祠だろうとは想像できる。
江戸時代の記録を見ると、明治以降に整理される以前は、村のあちこちにいろいろな神様が祀られていたことがわかる。しかし、今は、和歌神社や釈迦尾宮の境内に移されて末社として並んでいるから、もともとどこにあったのか手がかりはない。ではなぜこの石祠は残されたのか。疑問に思いつつ、さらに斜面をのぼり、ヒラトモ様が鎮座する稜線にたどりついた。
ところが、翌日職場の昼休みに、二百年前の大井の地誌のコピーで、ほたる免という土地の身陸社という小社の記事を眺めていて、ふるえがくるほど驚いたのだ。こんな名前の神社は、後の時代の記録には一切出てこない。もちろん村社の末社にもなっていない。記事には石祠とあるので候補ではあるなと考えたときだった。
身陸社・・ミリク社・・ミロク社じゃないか。当時の記録では当て字は普通だろう。
仏教の弥勒様と関連があるなら、明治になっても神仏分離で合祀するわけにいかなかったのかもしれない。力丸さんが覚えている石室との関連は不明だが、場所と名前と祠の一致は偶然ではないはずだ。あの石祠が、ミロク様であるのは間違いないだろう。
力丸さんの記憶をてがかりにして、大井村の歴史にまた一歩近づいた気がした。