一昨日の読書に引きずられて、今度の僕の故郷の街の市長の講演録を読んでみる。偶然20年ばかり前の同じ時期を扱ったものだ。
この人は市民運動家だから、マスコミ人以上に理念や正義を振り回し、周囲とのあつれきを巻き起こす。自分の理念を実現するためにたまたま選んだ地域だから、やたらに鼻息が荒い割には、街に対する愛情も特には感じられない。
新しく開発された土地と旧村部との間にはしこりが残っていると言い立てているが、それは政治屋さんの世界でのことだろう。半世紀前にこの土地で育った子どもにとって、両者の境界こそが魅力だった。
学園としての景観を守る。高所得で有能な市民たちの力を借りて、市政のパートナーとして育てる。今から振り返ると、ごく当たり前の発想で、声を荒立てていうほどの正義とは思えない。しょせんは、それがどんな手法でどのくらいまで実現できるかの、程度問題だろう。
ちょうどこのころ、国立の公立学校では、子どもたちが不在の、大人たちのイデオロギーによる空中戦が行われていた。この本にはそれがまったく触れられていない。
街づくりや教育というものと、善悪や正邪にもとづく闘いとは、原理的にまったく別のものであるはずだ。そのことに無自覚であるのが痛々しい。