大井川通信

大井川あたりの事ども

『わかりあえないことから』 平田オリザ 2012

読書会の課題図書として再読。出版当時、すぐに読んでいる。それまでも、著者の本は、演劇や演劇史、演出の入門書で重宝していたので、これも抵抗なく面白く読んだ記憶がある。しかし、今回は近作の『下り坂をそろそろと下る』に大きなほころびを見つけてしまった後なので、その観点から読みなおすと、すでに亀裂の前兆をあちこちに見出すことができた。

ただし、納得のいく主張が多いのはまちがいない。日本社会の「わかりあう文化」「察しあう文化」の内部での「会話」とはちがう、価値観の異なる者同士の「対話」の文化、「説明しあう文化」へと舵を切らざるを得ないこと。しかし、説明とは虚しいことであり、この空虚さに耐える必要があること。(ちなみに、このまっとうな指摘が、『下り坂』では、経済成長が止まる、東アジア唯一の先進国でなくなる等の政治的、経済的要因からの「寂しさ」に向き合うべきという通俗的な話に後退してしまっている)

また、「会話」ではなく、「対話」においてこそ、意味伝達とは関係のない無駄な言葉の含まれる割合(冗長率)が高くなる、というのは新鮮で、とても重要な指摘だと思う。

しかしながら、著作全体としてみると、主張の一貫性や厳密性を欠いて、矛盾や言いっ放しも散見されるのは、なぜだろうか。著者の軸足が定まっていない、というのが大きな原因だろう。

著者は、現代口語演劇という一流派の演出家であり劇団の代表者である。その実践からの発言はさすがに鋭い。しかしそれとともに、演劇ワークショップや演劇教育の立場からの発言もあれば、演劇人や芸術家を代表するかのような発言もある。さらには、コミュニケーション教育の専門家を名乗る発言が多くなり、しまいには、日本社会や日本文化の行く末を論じる評論家になってしまう。

たとえば、演劇と通常のコミュニケーションは、素人目にも、まるで違ったものだ。あらかじめ決められた台詞で、演出家の指示通りに演じるという決定論が支配する演劇の世界と、自分の言葉を自由に使い、展開が不透明であるコミュニケーションの時空とは、まったく異質なはずである。この本には、演劇の専門家が、なぜコミュニケーションの専門家になりうるのかという部分への説明がない。けむに巻かれたような気がする理由は、こんなところにある。

しかし、さらに考えると、歴史の浅い日本の演劇界で、実作、理論、啓蒙、普及、政治等、一人で何役もこなさざるを得ない著者の「不幸」が、著作の内容に反映されているのかもしれない.。軸足のブレは状況に強いられたものなのだ。読書会の議論でも、著者の孤軍奮闘に共感する意見が多かった。