大井川通信

大井川あたりの事ども

ある演出家の蹉跌

昨年末、ある演出家のセクハラの話が、ネットニュースで大きく取り上げられた。ネット上でのセクハラ告発が評判になっているさなか、ハリウッドの大物プロデューサーの事件の日本版みたいな扱いも受けたようだ。

演出家市原幹也さんは、僕が6年前、地域密着型の演劇ワークショップに参加していたとき、その地域の商店街にある小さな劇場で芸術監督をやっていた。銀行の古い空き店舗を使った、粗削りの魅力がある空間で、柿喰う客やOrt-dd(シアターオルト)や東京デスロックなどの劇団の、衝撃的に面白い舞台を体験した。僕がおくればせながら演劇の魅力を知ったのは、この劇場のおかげだと言っていい。彼は入り口で物静かに立っている印象があるが、劇場の企画や運営はとても優れたものだったと思う。

当時、衰退する地元商店街に積極的にかかわることもしていて、商店街を舞台に彼の劇団の芝居をしたり、劇場に地元の小学生を出入りさせて、公演も無料で見せていたと思う。僕は、彼が商店街を歩き回りながら、各店舗で詩を朗読するという企画に参加したことがあるが、それは何が面白いのかよくわからないものだった。やがて彼は、その地域を離れて、地域とかかわる演劇という方法論をもって、活躍の舞台を広げていったようだ。

地域とかかわる、ということが、時代の要請もあってクローズアップされているのは確かだろう。しかし、僕は、彼の活動のその部分には特に魅力は感じなかった。彼の実家が商店で商店街に特別な思い入れがある、というインタビュー記事を読んだ記憶がある。人や地域とかかわりたい、というのは彼個人の欲望から生じていたことだろう。それを演劇や街づくりという平面で切り取って、プラスの面だけで評価するというのは事の反面にすぎない。

しょせん人間の欲望から始まることには、光と闇がある。その光と闇をまるごと抱え込むのが、演劇という芸術のはずだ。彼の方法論は、この闇の部分を繰り込むことができずに、それをセクハラという粗野な形で放任してしまったのかもしれない。