菅孝行の自伝を読んだら、数年前購入してあったこの本が読みたくなった。菅孝行と佐藤信は、僕より二回り上のいわば先生世代に当たる。演劇関係者で左翼であるという共通点もある。ちなみに当時左翼であることは学生、知識人のデフォルトだった。
三回り上以上の親世代の戦中派が姿を消してしまって、彼ら彼女らの生きた時代についてあらためて考えてみようという問題意識をもってから、いつの間にか時間が過ぎてしまった。今は、先生世代の焼け跡派が姿を消し始めている。それどころか、一回り上の学生運動の世代すら、ずいぶんと発信力を失ってしまった。その世代のカリスマだった吉本隆明の名前を聞くこともなくなってきた。
振り返ってみると、僕は自分が実際に自覚的、知的に体験した80年代以降に関心が集中していたと思う。それが自分たちの時代であり、上の世代が得意げに吹聴する体験談をうっとおしくさえ感じていた。しかしにぎにぎしい上の世代の存在感が消えてしまった今になって、あらためて焼け跡派や学生運動の世代に関心を持つというのは、戦中派の時と同じパターンだなと思う。
著者の梅山いつき(1981-)は、佐藤信の東京学芸大学時代の教え子で、アングラ演劇の若い研究者だ。以前水族館劇場の公演の時にスタッフとして働いて姿を見かけたことがある。
黒テントの歴史を社会的事件としてだけ描くのでなく、テキストを分析してほしいという師匠の課題に応えた著作だけあって、当時の写真、資料や同時代の証言、佐藤信自身の言葉も豊富に紹介され、重要な演劇作品に絞って丹念に作品分析もなされていて、長いけれども飽きさせない面白い読み物となっている。終戦後の幼少期から現代にいたるまでの軌跡を追っているのは、菅孝行の自伝と同じだ。
ただし、演劇一筋でいわばその最先端で作品をつくりながら豊富に言葉での発信を行ってきた人だけに、作品の「公的な」意味あいを再現して時間軸に並べることはさほど困難な作業ではないように見える。60年代のアングラ演劇の創始から、「運動の演劇」の提唱とテント芝居の実行。昭和三部作による天皇制批判。「たたかう民衆の演劇」という看板の内実を求めてのアジア演劇との交流。個に立ち返っての公共性の再構築と劇場という場の可能性の開拓と演劇人の育成。
こうして通覧した場合に、やはり70年代から80年代にかけての時期に大きな亀裂を見て取らざるをえない。この亀裂はおそらく大きな時代の変化に強いられたものだろうが、佐藤信の発信する言葉は、はたしてこの断絶の前後をがうまく架橋できているだろうか。著者の持ち出す補助線をもってしてもそれが成功しているとは思えない。
たたかう民衆のための運動としての演劇(その内実は天皇制文化批判)が、アジアや劇場という場所に目を向けた個の確立と交流というテーマに変換されるのは、やはり何か前者を空虚なものとして置き去りにしている感は否めない。
著者は、80年代の佐藤作品のシンプルな舞台に登場する「テーブル」について興味深い分析を加える。テーブルは舞台上のバラバラな人物たちとそのセリフやそれぞれ別の時間を縫合する機能をもっており、それはかつて佐藤の舞台で「民衆」が担っていたものではないかと。
しかし、これはとても無理な解釈だ。演劇に詳しくない僕にはなんとも言えないが、このテーブルのような中心軸(ゼロ記号)は、小劇場の舞台を成立させるために必要不可欠のもので今の舞台でも頻繁に見かける仕掛けであり、必ずしも佐藤信の創案したものではないだろう。
この技術的な仕掛けを、70年代の「民衆」という理念の後継とみなす無理な解釈を持ち出さないといけないくらい前後の断絶が深いということだろうと思う。しかしこれは佐藤信が劇作家として具体的でリアリティのある舞台を常に観客に届ける使命をもっていることと関係しているのかもしれない。
今回初めて知ったが、佐藤は2001年のテロを受けて黒テントで『絶対飛行機』という芝居を作っているそうだ。その詳細な解説があるのだが、当時の状況にあまりにも深く食い込んでいて、実際の芝居を観ることができない状況のもとでは、テキストにやや白けてしまったというのが本当のところだ。
小劇場の演劇のテキストだけを抜き出した場合、その射程はかなり短いといわざるをえないだろう。これはテキストの問題というよりも、テキスト分析を中心に据えるという方法の限界であるような気がする。