大井川通信

大井川あたりの事ども

押し活とユートピア

現代美術家の外田さんと、新しく始める読書会の件で、小倉駅コメダ珈琲で話をする。話題は多岐にわたったけれど、外田さんの娘さんの話が面白かった。

娘さんもまた美術家だけれども、ある時からアイドルの「押し活」に注力し始めたらしい。今は『遠野物語』の原郷を訪ねる旅に出かけているそうだ。映画を見たり小説を読んだりする場合でも、とにかく「楽しむ」というスタンスが一貫している。

そういう娘さんから見ると、父親である外田さんは、とてもつまらない生き方をしているように見えるらしい。実際にそう言われたそうだ。これは意外で(外田さんには申し訳ないが)ちょっと面白かった。

現代美術家として長く活躍している外田さんは、僕などから見ると、さまざまな文化的、人的な資源を享受して自在に生きている自由人だ。ほぼ同世代ながら、狭い世界で不器用に生きる他なかった自分にはうらやましくもまぶしい存在に見える。

ところが娘さんから見ると、そんな外田さんのふるまいも「学び」や「向上」のためという目的意識の構えが鼻について、純粋に楽しむことができない可哀そうな人という烙印を押されてしまったようだ。

やはりこれは世代の問題だろうと思う。僕も中年過ぎてから、アイドルやバンドを楽しんだり、近年では競馬の見たりもしているのだが、やはり没入のレベルが低く、純粋にのめり込んで楽しむことができない。ライブにいくタイミングも逃すし、馬券も買ったことはない。何事にも、勉強して認識を深めようという下心がこびりついている。知人との人間関係も「勉強会」や「読書会」を介したものが中心だ。

僕たちの世代がモデルにした大人たちは、戦中派から焼け跡派、学生運動世代までだが、彼ら彼女らは、戦中戦後から高度成長期までの激動の時代に、社会変革の思想を刷り込まれた世代だった。

最近たまたま読んだ菅孝行の自伝や佐藤信の伝記(二人は1940年前後生まれの焼け跡世代)の中では、権力批判と革命の言説が自明なものとしてあふれている。今目の前にある現実は取るに足りない間違ったもので、本物の価値ある世界は別の場所にあるという信憑は、冷静になって考えて見るととても特異で異常な発想だ。

高度成長以後の豊かで多様な世界を享受しはじめた僕らは、上の世代の「共同幻想」(左右を問わない)に違和感をもちつつも、その影響を逃れられない「宗教2世」のようなものだったのだと思う。ユートピアの存在は疑っていても、そこに向けて刻苦勉励するというメンタリティ(現状享受ではなく現状否定)だけは引き継いでいる。

価値から疎外された状況で、しかし確固たる価値を信じることもできないジレンマ。奮闘努力する空疎な身振りの中に、かろうじて価値の感覚を回復することしかできない。ここまで来たら、そこに可能性を見出すしかないわけだが、後続世代からとてもつまらない無理な生き方をしていると見られても仕方ないことだろうと思う。