大井川通信

大井川あたりの事ども

記号と意味(昔書いた演劇メモ①)

数年前小劇場の舞台を見始めたころ、最初に引っかかったのは、岡田利規の「役柄と役者の一致ということが、演劇を面白くなくしている正視に耐えないウソだ」という言葉だった。僕は岡田さんの芝居自体にはそれほど惹かれなかったのだが、彼の言わんとするところは徐々にわかってきて、その観点を引き延ばすことで、現代演劇の仕組みについて理解できると考えるようになった。

たとえば「記号と意味」という比喩で考えるとすると、とりあえず物質的なものである記号は、意味を表すかぎりで自己の身体を透明にする、といえるだろう。記号の使命は、自分をできるだけ透明化して、意味に送り届けることであると。

すると、役者という記号は役柄という意味に、舞台装置という記号は作品世界という意味に、舞台上の時空間は作品世界の時空間へと送り届けられて、そしてもちろん観劇者は記号ですらなく何物も意味してはならないことになる。

しかし、これを徹底させると、舞台上の全てが見事に無化して透明化してしまい、一回的な今この場における演劇である必要はなくなってしまうだろう。それは映画や小説と変わらないものになってしまう。

岡田さんが言っていたのは、演劇の存在意義と面白さは、記号がむしろ完全には透明化せずに意味の世界と並び立って、記号と意味が干渉しあうところにある、ということだろう。

役者がどんなにうまく演技したところで、それが目前の舞台での演技である以上、100パーセント役柄の人物そのままだと見せることは不可能だ。多くの舞台では、最後に役者たちは役柄での関係を離れて観客に挨拶するが、それがとくに「種明かし」になるわけでもない。これが、映画や小説だと、役柄の虚構性には触れることなく物語は閉じられる。役者と役柄の一致は守られるべき生命線となる。

舞台において、役者と役柄の一致が正視に耐えないウソだという理由は、それが舞台と観客で共有する見え透いたお約束であって、映画や小説の拙劣な真似事に過ぎないからだろう。