大井川通信

大井川あたりの事ども

ほんとうの話 /うその話

僕は、若いころから、批評が好きだった。小説は、意識して読もうと思わない限り、手に取ることはない。ただ、世間では、本好きな人といえば、小説を楽しむ人が大部分だろう。しかし、小説好きでも、自分で小説を書いてみようという人は、それほど多くない気がする。

以前、わけがあって小説もどきを一つだけ書いたことがある。そもそも小説をあまり読まないのだから、とても苦労した。しかしなんとか書き上げたのは、小説を書くコツ、というか、それがどういう行為なのかに気づいたからだ。

まず、情景描写。しかしそんな場所も景色も本当はどこにもないのだ。キャラクター。しかし、そんな人間は本当はどこにもいない。そんないない人間同士が、実際にはありえない関係をもち、ありえない事件を起こして・・・。本当ではないことを、世間では嘘という。すると、小説は一行一行がすべて嘘であり、小説を書くためには、とめどもなく嘘をつき続ける必要がある。

ところが、人は嘘をついたらいけない、と教えられて育っている。嘘をつくことへの心理的抵抗感は、想像以上に大きい。しかし、この抵抗感を解除しない限り、一行だって物語は進まない。だから、小説を書くためには、嘘はいけないという身体に深くしみ込んだ規範をかなぐり捨てる必要がある。そこに開き直りさえすれば、自分の体験でいえば、つぎからつぎへと嘘が飛び出してくるし、むしろそれがタブー破りの快感となっていく。

一方、批評は、ほんとうを目指す行為だ。こんな小文だって、批評の片割れだから、自分のなかの本当をさぐって、自分にとって嘘でない、というものを見つけないと、一行だって書くことはできない。

こんな風に考えると、同じく言葉のかたまりといっても、小説と批評とでは、その入り口というか、言葉に向き合う態度が全く正反対であることに気付く。それは、自分が実際に書く時には顕著だが、読む立場になると、ある程度あいまいになってしまう。しかし、このあいまいさが、本や言葉をめぐる誤解やあつれきを、時に引き起こしているようにも思える。それは、本当と嘘という、人間にとって死命を決するような重大な差異をないがしろにしてしまうわけだから。