大井川通信

大井川あたりの事ども

旧友の虚像と実像

20代の頃、東京の郊外の進学塾で、3年ばかり専任講師をしていたことがある。その時の同僚と、30年ぶりに会うことになった。待ち合わせの小さな駅のロータリーに車をとめても、それらしい人影はない。5分ほど待ってから電話をすると、さっきから階段の脇に立っている人が携帯を取り出して会話をするそぶりを見せる。それで、その人が知人であることを悟った。

想像より、遠目にはずっと若い姿だったとはいえる。だったら以前の姿に近いのだから、まっさきに気づきそうなものだ。しかし30歳の青年が、今では60歳の初老の人になっている。違っていて当たり前だ。人生をもう一回やりなおしたくらいの月日がたっているのだから。

話始めると、表情や声、話しぶり、考え方の中に、面影を次々に発見して、間違いなく彼が知人であることを納得していく。お互い様だが、歳をとっただけなのだ、と。

3時間程話して別れる頃には、今の彼の姿を知人そのものとして認識していることに気づいた。次に会う時には、初老になった知人の姿を違和感なく受け止めることができるだろう。そして、30年の間、僕の中で知人そのものであった青年時代の彼の姿は、たんなる回想上のイメージとして、急速にひからびていくのかもしれない。


✳︎実際に一ヶ月後会った時には、すんなり今の姿の彼を受け入れて、話に集中することができた。「あべこべのひと」参照