大井川通信

大井川あたりの事ども

介護と演劇(その2)

前回は菅原さんの演劇ワークショップの要点だけを書いたが、お年寄りを役者にした主宰する劇団の話もあって、さまざまに示唆的で説得力があった。

だから、すぐに記事にしたかったのだが、一か月以上かかってしまったのは理由がある。菅原さんのワークショップがあまりに見事だったために、かえってそこからこぼれおちてしまうものが気になってしまったのだ。

一般市民向けのワークショップだから、認知症というものへの啓蒙のために、あつかいやすい方法として単純化しているのは、むしろ当然だし、そのために省略したり切り捨てたりしてしまうものがあるのは、菅原さんが一番よくわかっていることだろう。それを自分なりに考えるというのは、受け手である僕の方の責任だ。

たしかにお年寄りたちは、時間空間の見当識にくるいが生じて、自分が幸せだった時代へとタイムリップしがちであるかもしれない。それを僕たちがワークショップで演じると、彼らがなんのためらいなくその幸せを享受しているかのように見えてしまう。

しかし、ほんとうにそうだろうか。人間というものはそんな幸福な勘違いにどっぷりと浸れるものなのだろうか。それは、溺れる者がつかんだワラみたいなものではないのか。

村瀬孝生さんは、『ぼけてもいいよ』の中で、託老所で暮らす「五郎さん」のことを紹介している。五郎さんは、自分のかっての幸福な時代に浸っているわけではない。むしろ毎日ちがった物語の中に住みながら、いつも冒険し、感動し、何かと闘っている。村瀬さんは、そんな五郎さんと付き合いながら、こんなふうに思いを巡らす。

「五郎さんはなぞを解こうとしているのではないか。記憶が継続しない脳を総動員して現実と向き合っている」「断片的に浮遊する記憶をパズルのように組み合わせ五郎さんはそのなぞを解こうとする。事実にたどり着こうと努力する。物語はそこから生まれるのか」

不安と疑いの中で、断片的な手がかりをたよりに、なんとか目の前の世界を解釈し、理解し、それと折り合いをつけようとする。勘違いの性格はそれぞれとしても、そういう悲痛でこっけいな作業が根底にあるのは同じだと思う。

なぜ、お年寄りが身近にいない僕にそんな断言ができるのか。それは、僕自身の暮らしがまったく同じことだからだ。年齢や症例の違いをこえて、人が生きていくことの根底に同じものがあると思えるからだ。

毎晩、こうして手探りで奇妙な文章を紡ぎだす。僕が実際にこうありたいと思う姿、こうだろうと考える世界の解釈の集積は、現実の世界の他の人たちから見れば、きっと奇怪に歪んでいることだろう。いっぱしの批評家を気取って何かと闘っている僕の自画像は、五郎さんの紡ぐ物語とたいして違っているわけではない。