大井川通信

大井川あたりの事ども

声について

以前、授業名人と呼ばれる小学校の先生の授業を見学したことがあるのだが、そこで先生が、様々なキャラクターを使い分けて授業をしている姿に驚いた。こわもてのキャラ。威厳のあるキャラ。面白いキャラ。内気なキャラ。そうした変化を演出しているのは、身振りや言葉づかいとともに、教室中に響くメリハリのある声だ。

一方、新人の先生などは、キャラが素のままの自分一つしかなく、声も単調で、教室の端まで届かない。子どもたちは、自分が呼びかけられているとも思えないし、すぐにあきてしまうのも仕方ないだろう。

先生たちにとって、声はなにより大切な商売道具であるはずなのだが、意外なことに、それを自覚的に訓練するような機会は、教育系の大学や教員研修においてもないようだ。ごく一部の研究者などが、演劇ワークショップの手法を取り入れているくらいなものだ。

そのワークショップでは、背中を向けて並んでいる人のなかの特定の誰かに向けて声を発する訓練をする。やがて声をかけられた人が背中でそれを感じることができるようになるらしい。つまり、声は人に当てることができるものなのだ。先生の声がボールのように飛んできて、おでこにピタリと当たるようだったら、子どもは寝てる暇なんてない。

子どもに何とか言葉を届けようという思いと、ともすれば退屈な授業内容に心を閉ざし勝ちな子どもの心をこじあけるために、授業名人のよくとおる七色の声が生まれたのだろう。

考えてみれば、声というものは、その人が、向き合う他者とどんな思いと態度で言葉を交わしてきたかによって長年作り上げてきた、とても人工的で個性的なものなのだ。

先日、宅老所よりあいの村瀬孝生さんと会食する機会があって、そのことを考えさせられた。村瀬さんの声は、一つのトーンだけれども、実に気持ちのいい声なのだ。何気ない会話であっても、いつまでもその声に浸っていたいと思ってしまう。

授業名人の声が「当てる」声ならば、村瀬さんの声は「さわる」声と言えるかもしれない。村瀬さんの声は、長年お年寄りたちとていねいに付き合い、自分の思い通りとならない他者を受容することで培われてきたものだと思う。

津屋崎の玉乃井主人安部文範さんの声もまた、とても気持ちのいい声だ。講演などでは、声を聴きたいという女性ファンがいると聞く。安部さんは、映画や小説、美術をひたすら味わい受容してきた人だ。受容する声、という共通点があるのかもしれない。