大井川通信

大井川あたりの事ども

日本海海戦記念碑をめぐって・番外編【鉄の船、石の船、そして紙の船】

★玉乃井プロジェクトから10年後の現代美術展で、渭東節江さんが船と塩をモチーフにした作品の展示を行った。それに刺激を受けて書き、玉乃井での勉強会で報告したもの。

 

【鉄の船、石の船、そして紙の船】/「9月の会」2017.5.4
戦前、安部正弘は、津屋崎の浜に海軍から払い下げられた本物の軍艦を係留した。それは彼の自慢のコレクションだったはずだが、退役した軍艦が潮風に傾き朽ちていくのはどうしようもない。

それに見切りをつけたのか、やがて正弘は港を見下ろす山頂に、念願の日露海戦記念碑を、強固な岩盤の上のコンクリート製の軍艦の形で完成させた。海上の軍艦アプラクシンは、まもなく兵器用の鉄材として供出されてしまったが、この石の軍艦の方は、戦中戦後を生き延びて、今も空虚な砲身を玄界灘に向けている・・・

そんなレポートをしたのは、ちょうど10年前に正弘の孫の安部文範さんが旧玉乃井旅館で企画した「玉乃井プロジェクト」の集まりだった。この間、津屋崎のまちおこしは進み、一種の観光資源として、山上の石の船にもスポットライトが当たるようになった。ちょうど今も、町中の観光施設の一角で、日露海戦をめぐる展示があって、安部正弘の名前と記念碑の模型を見ることができる。

折しも、津屋崎の浜から続く日本海北朝鮮からのミサイルが撃ち込まれ、アメリカの空母とそれを護衛する日本の軍艦が出動する事態となっている。幻になったかに思えた鉄の船団が、また姿を現し始めたのだ。

ところで、戦後の安部正弘をめぐるエピソードの方は、もう思い出されることはないかもしれない。浜辺に面する第二島屋を買い取って、玉乃井旅館とした正弘は、海に舳先を向ける二艘の船の形の客間「日の間」「月の間」をしつらえたり、母屋に小船を取り付けて自分用のスペースを作ったりした。これら木の船は取り壊されて、今は跡形もない。

第12回津屋崎現代美術展で、渭東節江さんは、玉乃井の二階の大広間の縁側に、たくさんの小さな紙の船をつるしている。それらは、すきま風に揺れて、ガラス戸の外に広がる海原にたゆたう船団のようだ。この漂着物のような軽やかな小船たちは、家族とともにここで旅館を営んだ晩年の安部正弘の海への思いともつながるように思えた。

ガラス戸の手すりにも紙の小船がならんでおり、みな少量の塩を、働き蟻のようにけなげに運んでいる。一般的には、家屋の隅に盛られた塩は、内外の境界を宣言し、外敵を排除する文化的機能をもっている。しかし、この小船たちは、命の源でもある塩を、海原からすくい上げ、陸上へともたらして、また海原へ帰っていく循環の航海の途上にあるように見える。

渭東さんは、津屋崎が塩田の歴史を持つことを知らなかったというが、この小船たちは、製塩事業の記憶の担い手というより、やはり海との直接でやわらかな交渉の象徴にふさわしい。

10年前と違ったことがもう一つある。
若い世代の人たちが、旧玉乃井旅館の建物の存続に取り組んでいることだ。
彼らは、僕たち旧世代のように声高に理念を語ったり、いたずらに世間を批判したりしない代わりに、きちんと計画を立て、見積りを取り、必要な補修を行い、会議や集会を企画して、着実に事を進めていく。旧世代への異和を糧に思考を紡いできた安部文範さんのおだやかな語りに、彼らが耳を傾けている様子が僕には好ましい。
彼らの営みが、玉乃井の客間を横切る紙の小船のようにつながって、確かな実りをもたらすことを願わずにはいられない。