大井川通信

大井川あたりの事ども

「玉乃井展」を観る

安部文範さんは、毎年のように自宅である旧玉乃井旅館を開放して、現代美術展を開催してきた。僕も十数年前に、玉乃井での美術展の企画に参加して、貴重な経験をさせてもらっている。複数の作家が、旧旅館の各部屋を使って、それぞれの作品を展示するのがふつうの形だが、昨年は、安部さんの多岐にわたるコレクションを見せるという企画だった。

それが今年は、美術作品の展示ではなく、玉乃井旅館自体を展示するという。事前に遊びに行った時には、安部さんから、玉乃井館内の様々な歴史をはらんだモノを説明するためのキャプションをつくるのに苦労しているという話を聞いてはいたが、それがどんな展示になるかは想像もつかなかった。

前回家族と訪ねて、さっと観てとてもよかったので、今回一人で誰もいない館内でじっくりと観て、確信した。今までの玉乃井での現代美術展とは、まったく異なるレベルに達していると。僕には、それが圧倒的に良いものに感じられた。

今回の展示も、現代美術を排除しているわけではない。むしろ、昨年のコレクション展と同規模くらいの展示がある。ただ、旅館時代の調度や土産物たちとまったく対等に、小さなキャプションを付けられて並んでいるのだ。旅館の貼り紙と同じくらい古びて、廊下の暗がりになじんでいる。

かつての現代美術展の展示の一部や残骸が、まるで玉乃井の一部になったようにそのまま置かれていて、それもまたキャプションで説明されている。当時あまり感心しなかった作品さえ、うすい埃をかぶって妙に魅せられるから不思議だ。

僕の偏見かもしれないが、現代美術というジャンルは、様々なルールや約束事を踏み抜いてはいても、作家の主体性や作品の独創性という神話を本心から疑うことは少ないように思える。だから、作者の意図や作為があからさまに透けて見えるし、玉乃井のような古い建物での展示でも、過去の時間と空間を現在の作品に奉仕させようというねらいが見えてしまう。

主体と客体、現在と過去とのスキマや亀裂が露わで、それを乗り越える力と魅力のある作品はやはり例外的なのだ。ところが、時の経過が降り積もる埃とともに、そうした作品の傷口を埋め合わせ、やがてモノそのものの魅力を回復させていく。

玉乃井という場所に宿りやすらう様々な時間と記憶が、小さなキャプションを通じて声低くつぶやいているようだ。玉乃井開業前の安部家の出来事。玉乃井旅館のにぎやかな時間。閉館後の安部さんによる美術と映画と読書の静謐な時間もすでに四半世紀に及んでいる。

僕も玉乃井に出入りして20年になるから、自分の関わりを分厚い時間の堆積のあちこちに見つける楽しみもある。実際、来場者には、自分の記憶を付箋で自由に書き足してほしいという指示が出ている。

たとえば、戦前の津屋崎小学校の卒業記念冊子は、僕が古本屋で見つけて安部さんに進呈したものだ。数年前の鈴木さんの松葉による作品(これは例外的に優れたもの)の部屋の机には、僕の書いた感想文の一枚紙が薄く埃をかぶっておかれている。

今回の「展覧会」の本当の力を思い知ることができたのは、今回、安部さんが不在だったことも大きいだろう。玉乃井主人であり企画者である安部さんがいないことで、かえってキャプションの匿名の声だけをてがかりに、玉乃井の時間の層に深々と浸ることができたのだ。主人のいない抜け殻のような家屋のささやきに耳を傾けることができたのだ。

安部さんの生活と、思想と表現の集大成といっていい今回の展示のさなか、安部さんが突然病に伏して入院中だということを、留守番の親戚の方から伺った。一日も早い回復を願わずにはいられない。