朝日新聞の土曜版を開いたとき、そこに安部さん親子の写真を見つけて驚いた。家庭菜園の一角にしゃがみ込んで、収穫した野菜でいっぱいのザルを満足そうにかかげる安部さんとお父さんの写真だ。切り抜きをみると、2004年7月31日の日付があるから、今から18年前のことになる。
美術展の紹介や映画評の記事なら驚かないが、「定番 うちの味」という記事で、真ん中にドカンと大きな料理の写真がある。レシピも載っているし、料理研究家によるアドバイス「プロの一言」も添えられている。料理にまつわるエピソードとともに、その家庭ならではの料理を紹介するという連載記事だ。
全国版の記事だから、遠くに住む親せきからも反響があったと安部さんから聞いた。どんな経緯で記事になったか聞いたはずだが、詳しくは覚えていない。執筆者として新聞社とつながりがあったから、その関係で取材を頼まれたような話だったと思う。
以下に引用するのは、安部家を取材した佐藤昭仁記者による記事。
安部さんからは、お母さんの事故のことも直接聞いたことがないくらいで、こういう形のエピソード(おそらく読み物としての誇張と演出を含んでいる)を人に話すことはまずなかっただろう。玉乃井旅館の歴史を様々な資料でたどった展示の中にも、玉乃井での美術展の記事の切り抜きは貼ってあっても、この記事はなかったと思う。そこには安部さんの矜持と照れがあったのだと思う。
ただし、父子ともに亡くなって菜園も廃れてしまった今となっては、玉乃井と安部家の歴史の貴重な証言だ。安部さんからの許しはもらいようがないが掲載しよう。
「庭先の菜園に出ると、目の前に海が広がる。玄界灘を望む福岡県津屋崎町。著述・翻訳業の安部文範さん(53)と父信次(のぶじ)さんが丹精込める家庭菜園は、ナスやキュウリ、ズッキーニなどが実っていた。2人が一緒に野菜作りを始めたのは5年前。母正枝さんの突然の死がきっかけだった。
『この菜園でおやじと力を合わせて野菜を作ることで、2人の心は少しずつ癒されましてね』
安部さん方は祖母玉(たま)さんが戦後開いたタコ料理が名物の割烹旅館だった。客の減少で10年ほど前に閉館するまで正枝さんが仕切ってきた。そんな母が亡くなったのは98年5月。町の図書館に行く途中、自宅近くで暴走車にはねられた。病院に駆けつけると、すでに意識はなかった。77歳だった。
いつも家族の中心にいた正枝さんの死に、夫と息子はやり場のない怒りをぶつけ合うようになる。それまでけんかなどしたことなかったのに、ささいなことで口論になり、気まずい思いをする日々が続いた。1年ほど過ぎたある日、文範さんは、父が1人でコツコツ作ってきた家庭菜園を手伝うことを決意する。力を合わせて野菜を育てれば、気持ちが分かり合えるのではないか。そんな思いが芽生えた。
文範さんは、父に教えられる通りに土づくりから取り組み、4平方メートル足らずの菜園を3倍ほどに広げた。無口な信次さんがやがて、菜園のことでは必ず文範さんに相談を持ちかけるようになった。どんな作物を植えようか。いつから収穫しようか。2人の間に、新たな信頼関係が生まれ始めた。
収穫した野菜は毎日のように食卓を飾る。父が作る朝のみそ汁の具、息子が受け持つ晩のおかず。料理のレパートリーは少しずつ増えていった。
文範さんの得意なメニューのひとつは夏野菜のトマト煮だ。採りたてのナスやズッキーニなどを一口大に刻みトマトソースで煮込む。準備を始めて約30分。勧められるままにパスタにからめて口に運ぶと、バジルとカレーのほのかな香りが鼻孔をくすぐる。野菜はしっかりした歯ごたえがあるのに、筋張ったところはなく柔らかく仕上がっている。
『タカノツメを入れてもおいしいけど、おやじは辛いのが苦手だから』。そんな言葉にほろりとさせられながら、トマト煮の味をかみしめた。」