大井川通信

大井川あたりの事ども

日本海海戦記念碑をめぐって⑦【安部正弘の戦後と船の家】

★この作文の結論として、僕なりに安部正弘の精神の襞をなぞるくらいのことはできただろうと思う。孫の文範さんの記憶によると、正弘氏は、小舟で自分用のスペースを作ってさえいたらしい。今では船型の客間も取り壊されて、正弘氏の特別な嗜好を知るてがかりは失われている。

 

【安部正弘の戦後と船の家】

敗戦は、正弘氏の心のよりどころだった日本軍隊の「無敵」の強さが、根底から崩壊する事態だった。実際に日本は武装解除され、彼が保有する記念品としての武器類も没収された。

三笠の30センチ主砲のわずかな先端部分を密かに保存し、海戦記念碑を撤去せよという当局の指示に従わなかったのが、精一杯の抵抗だったようである。正弘氏自身、戦犯の嫌疑をかけられるのではないかと恐れていた時期があったようだ。

そんな中で正弘氏は、獣医師・装蹄師団体や漁業協同組合の役職としての仕事、玉乃井の経営などの実務に打ち込んでいく。かつて展示艦沖ノ島が繋留されていた浅瀬の海岸の上には昭和39年に灯台が建設され、航海の安全に役立っているが、建設にあたっては正弘氏の尽力が大きかったという。

やがて敗戦後20年が経ち、正弘氏は80歳を目前にして東郷神社を中心とする公園の復興に着手する。彼の「非転向」を支えていたのは、理念や国体ではなく、東郷平八郎という一人物への崇拝の念だったのだろう。戦前には「元帥崇拝の結晶」とまであだ名されたというが、それは狂信というより、この国民的英雄と親しくつきあえたという僥倖に対する、むしろ律義で生真面目すぎる反応だったような気がする。

ところで、記念碑をめぐるささやかな「調査」を終えて、ようやく最後に旧玉乃井旅館の小さな部屋のことを思い出した。気づいてみれば、なぜ今まで連想しなかったのか不思議なくらいである。

それは戦後、正弘氏が実際の小舟を土台に据えて増築した、屋形船風の「船の家」(日の間、月の間)のことである。二つの「船室」は、へさきを砂浜に向けながら、もはや海戦の指揮ではなく、名物の蛸壺料理を楽しみ家族や友人と語らう場所として使われていた。そんな船型の客室を自分の旅館の目玉にしようとしたことに、正弘氏の戦前の情熱の小さな残り火を見ることができないだろうか。

もっとも木造の船の家の方は玉乃井の廃業後の年月ですでに朽ちかけているが、堅牢な海戦記念碑のほうは、まだしばらく空虚な砲身を玄界灘に差し向け続けることだろう。正弘氏の望んだ頑丈さのために、記念碑には未来が与えられたわけである。再び「国力」のシンボルとなるのか、戦争遺跡として棚上げされるのか、ゆっくりと風化していくのか、はともかくとして。

 

▼参考文献

『いのちの限り 安部正弘翁の半生』 上妻国男 1970年

『東郷公園と私』 安部正弘 私家版 1966年

伊東忠太建築作品』 伊東博士作品集刊行会編 1941年

『励-その足跡 徳永庸追想録』 私家版 1977年

『日本の博覧会 寺下コレクション』 別冊太陽 平凡社 2005年