大井川通信

大井川あたりの事ども

作文的思考と「記憶通信」

玉乃井プロジェクトでは、現代美術というふだん縁遠いジャンルの作家たちと親しく接することができた。現代美術の作品から刺激を受けたり、その内容を実際に作文にしたりすることを通じて、自分の作文の間口を広げることにつながったような気がする。

参加作家の一人である諏訪真理子さんは、玉乃井で「記憶を収集するプロジェクト」を開いていた。複数あるいは一人の人と対面して、その人の個人的な記憶を語ってもらい、本人に絵を描かせたり、語りを録音したりする取り組みだ。そのプロセス全体が作品になる。

僕は、玉乃井プロジェクトが終わった後も、ちょっとした思い付きで、諏訪さんに自分の記憶を送り続けることにした。L版の写真印刷用紙二枚をワンセットにして、一枚は画像、もう一枚は250字弱の作文をプリントして、それを五日おきに封書で郵送する、というルールをつくる。この「記憶通信」は、およそ一年半、100通を超えるまで続いた。諏訪さんは、この記憶カードを材料にした作品の展示をしてくれて、それが僕には現代美術と作文との関係を考えるよい機会となった。

ところで、玉乃井プロジェクトは、あくまで旧玉乃井旅館という場所が舞台であり、安部さんの家族をめぐる物語を紡ぐのが中心の企画だった。僕は「記憶通信」を書き続ける中で、もっと自分に身近な事物について作文を書くようになった。僕自身の故郷や家族、身の回りのことについて。

たとえば、恩師の訃報に接したばかりの2007年5月12日付けの通信。

今村仁司先生が亡くなった。大学に入って法律学の型どおりの講義に飽きた頃、偶然まぎれこんだ思想史の教室で、思考に身もだえする講師に初めて出会う。学年の初日、八王子片倉駅のプラットホームで、東経大今村ゼミの聴講を直訴する。先生は現代思想ブームの渦中で脚光を浴び、自分は野暮な市民運動と就職活動との間で難破寸前だった。『理解とは自分なりの図を作ること』先生の教えは、今でも私のペン先を走らせて、世界の切れ端を捕まえるための小さな蜘蛛の巣をはり続ける」

2008年2月21日の通信では、父親の思い出。

「父親はよくモノに凝る男だった。しかし素人の悲しさで、失敗も多かった。日本刀に凝って、少ないこづかいから何本か模擬刀を買い集めたことがある。実際に切れないことが不満だったのか、砥石で刀を研ぎ始めたものの、そんなことで刃が鋭くなるはずもなく、模擬刀の表面を傷だらけにしてダメにしただけだった。埴輪や土器に夢中になったときには、うれしそうに骨董屋から数万円の『縄文式土器』をかかえてきた。汚れを落とそうと水道の水をかけると、あっという間に土器は形を失い、父の指先から泥になった流れてしまった」