大井川通信

大井川あたりの事ども

備中国分寺 五重塔

バイパスを高速で走っていると、進行方向の田園風景の中に、五重の塔の小さなシルエットを見つけて、はっとした。その姿は、近づくにつれ魅力を増し、観る者の胸を高鳴らせる。

備中国分寺の五重の塔は、広々した田園の奥の高台にあって、周囲の木々から五層の全身が浮き上がって見えるという理想的なロケーションにある。  

五重の塔の魅力とは何だろうか。美学的には、時代がくだるにつれ、五層の屋根の逓減率が小さくなり、機械的で潤いがなくなると言われていて、僕もそう思っていた。近場から見上げるとき、下層の安定感や上層に向けての締まりのない一本調子の江戸時代の塔はなるほど無粋に見える。

備中国分寺の塔は幕末のものだ。しかし遠くから観るこの塔の姿からは、五重の塔のまた別の魅力について考えさせられた。柱も壁も軒も屋根も、この土地の風土に生きる建物として完全に合理的な形態であり、見慣れたものだ。しかし、それを縦に五層重ねるとういう全く非合理的で不可解な選択が、観る者の視覚に異様な緊張と快楽を与える。そのためには、緻密な計算によるバランスよりも、機械的な反復がふさわしいのかもしれない。

さらに、備中国分寺の塔は、塔身も屋根も黒味が強い。柔らかな田園の色調を背景とする黒一色の姿が、メカニカルで非日常的なシルエットを一層際立たせているようだ。

 

 

 

生態系カズクン 飛ぶ劇場 2017

1997年が初演。劇団30周年を記念して、出世作となった舞台の4度目の再演だという。祖母の通夜が行われる麦山家の一室に、おじやいとこなど、親族の面々が集まってくる。おそらくは架空であるこの地域は、死者に対する扱いに独特の風習があって、死者の魂が身体に戻ったのを確認してから、お宮へと運び、海に流すことになる。

だからテーマは「死者」や「他界」ということになるが、その描き方は、とても手堅い、というか、観る側に親切だ。麦山家の人々のどこか奇妙な習慣は、他地域からやってきたいとこの結婚相手の目を通すことで、解きほぐされる。「猫似」族であるカズクンとその仲間たちという不可解な存在も、基本的に麦山家の飼い猫と近所の野良猫としてみればいいことが示唆される。彼らは、死者や他界により近い存在だ。心に障害を持ったいとこの一人が、猫似族との媒介者を務めるのもわかりやすい。死者の登場の仕方もそのキャラクターも親しみやすいものだ。この間の達者な役者たちの軽妙なやり取りは、物語を近づきやすいものにしてくれるし、劇団のファンなら一層楽しめるだろう。

多少の波風は立つものの、麦山家の人間関係に大きな進展や深まりはなく、それは猫似族たちも同様で、だからクライマックスの出棺もカタルシスよりも、予定調和を感じてしまった。しかし演出家の泊さんは、パンフの中で「現代の寓話」を目指すと言っているのだから、パターンによる予定調和の印象はむしろ歓迎されるのかもしれない。

にもかかわらず、この舞台には、寓話を突き抜けた、言ってみれば真の「他界」を指し示す力が感じられる場面があった。役者たちが、おそらくは海とその彼方をうかがうように、沈黙して観客の側に視線を向ける演出が、途中2回、終幕の前に1回あったと記憶する。登場人物たちから突然向けられたあの視線には、原理上、われわれ観客の姿はいっさい映っていないはずだ。その瞬間、観る側の存在は、暗い海洋上をさまよう不可視の霊魂に過ぎないことに気づかされたし、そこから見下ろされる舞台が「この世」の孤独な一隅であることが見て取れた。

 

あいさつの境界線

大井川歩きのときは、すれちがう人には自然にあいさつをしている。しかし、いつでも誰に対しても、というわけではない。ある時、見知らぬ人にあいさつがしやすい状況には、ある法則があることに気づいた。

山道では、むしろ義務みたいにあいさつをする。お互いの警戒心や緊張を解くための儀礼のようなものだ。平地に降りても田畑の広がる場所なら、あいさつは自然と出てくる。朝ならなおさらだ。でも昼間のあいさつは少しハードルが高いかもしれない。

住宅街に入るとどうか。早朝、相手が犬を連れている場合なら、あいさつはしやすい。しかし日中、見知らぬ相手に声をかけるのは抵抗がある。変な意図をかんぐられそうだ。住宅を抜け、大通りの商店街に入ると、たとえ朝でもあいさつするとしたら、場違いで変な感じとなるだろう。駅前の繁華街までいくと、もうあいさつは思い浮かびもしない。見知らぬ人に声をかけるのは禁じられているのだ。

場所でいえば、周囲に自然が多いほど、また時間でいえば、朝が早いほどあいさつはしやすくなる。一方、人間同志のかかわりが増えて、用事や仕事に縛られる場所や時間帯に近づくほど、他人同士のあいさつは不必要なものになっていく。社会学に「儀礼的無関心」という概念があったと思うが、都会では見知らぬ人には無関心を装うことがマナーなのだ。同じ早朝の住宅街でも、職場へ急ぐ人にあいさつして心を乱すことは思いやりに欠ける行為だが、日常から解放されて犬と散歩している人とのあいさつはOKとなる。

こうした使い分けは、TPOに応じて誰もが当たり前にしていることだろう。ただ、大井川流域の様々な土地を歩き通すことによって、身近にある境界線の存在がきわだって感じられるのだと思う。

 

ため池のカイツブリ(おまけ)

少し前に、NHKの人気番組で、東京井之頭公園のカイツブリの生態が紹介されていた。巣作りも、子育ても、縄張り争いも、ヒナの飛ぶ練習もアップで撮られて、遠目では気づかない表情やしぐさまでわかって面白かった。井之頭公園では、ギャラリーが集まってカメラを向け、まるでアイドル扱いである。一方、ほとんど人目を引くことはなかった我が隣人のカイツブリの記録を補足しておくことにしよう。

昨年3月末に、池のほとりの灌木のかげに、浮巣と卵を2個発見する。巣は、枯れ枝や草、ごみなどで作られており、水面に張り出した枝から垂れさがるツタの何本かにつないであって、ゴンドラのようだ。人の気配を感じると、抱卵中の親鳥はクチバシで枯葉をかけて卵を隠してから水面に飛び込む。4月の下旬には、ヒナをおんぶして泳ぐ親鳥の姿を見るようになった。この時ヒナはほとんど親の背の羽に隠れているが、別の親からエサをもらうときには首を伸ばす。4月末に大雨でため池の水位が上がって巣は水没してしまい、結局ヒナは一羽しか育たなかった。5月に入ると、ヒナは親の背から降りて泳ぐ時間が長くなり、両親はため池の対岸に新しい浮巣を作り始める。5月の中旬にはまた抱卵を始めたようだ。よく見ると巣は壊れやすいのか、一方が抱卵中も、もう一方は材料を探してきて巣のメンテナンスに余念がない。5月末には、大きくなったヒナがしっかり独りで泳いでいた。残念ながら昨年の観察記録はここまでだ。

今年は4月になってもため池に水が張られず、6月初めのメモでも、水量が少なくてカイツブリの巣が見当たらないと書いている。それでも7月中旬にはヒナが何羽か泳ぐのを確認できたから、なんとか6月の早い時期には巣を確保できたのだろう。8月中旬には親2羽、ヒナ4羽で仲良く泳ぐ姿が見られたが、それもつかの間、ため池の水が抜かれて親は姿を消してしまい、8月の下旬から9月初めにかけて、水たまりに残された4羽のヒナの運命にやきもきさせられたのは、すでに記事にしたとおりである。

さて来年にはどんなドラマが待っているだろうか。

 

 

 

聖地巡礼(Perfume編)

めったに家族サービスはできてないので、土砂降りの中でも、なんとか本場のお好み焼きを家族に食べさせたいと思った。計画性はゼロなので、ガイドブック片手に広島市内をぐるぐる車を走らせ、初めの目的地と違う「お好み焼き村」になんとかたどり着く。しかしたくさんの店の中でどこがいいのか全くわからない。明らかに少数の人気店とガラガラのたくさんの店。気疲れしながら四階まで上がって、妻が有名人の色紙が壁中に貼られている店を見つけ、もうここでいいと指差す。見ると、ほどよく混んでいる感じ。座ってから、何気なくスマホで調べると、偶然にもPerfumeの行きつけの店であることがわかり、ひとり興奮しながら、うまいお好み焼きをほおばった。

ずいぶん前、Perfumeが好きだった時があったので、ファンがゆかりの場所に「聖地巡礼」する気持ちもよくわかる。人々が特別な場所として目指す「聖地」に偶然遭遇して、少し得したような気がした。

 

 

聖地巡礼(黒住・金光編)

黒住教の本部は、岡山市郊外にある。桃太郎で有名な吉備津神社に近い小高い山の上だ。中腹の駐車場に車をおいて、教団の施設の脇の石段を登っていくと、深い森の中に大きな神殿があった。多くの信者が集えるように内部は広く、縁と軒が大きく四方に張り出しているのは、真宗の仏殿のようだ。しかし屋根は薄くのびやかであり、中央には神社風の急こう配の切妻屋根をすえて、神の居所を示している。この特異な形態は、倉敷の街づくりを支えた建築家浦辺鎮太郎(1909-1991)の設計によるものだ。神殿の裏手の石段をさらに登ると、日拝壇があって、ここで毎朝日の出を拝むのが大切な宗教行事となる。標高120メートルというから、地元のクロスミ様からの眺めとまったく同じだと思った。

日曜なのにあまり人気はなく、森閑として歴史ある聖地のようだ。実際は、戦後岡山の市街地の開発を逃れ、日の出を拝むのにふさわしい場所を求めて移転したらしい。やむを得ない事情だろうが、開祖黒住宗忠が行った人々のただ中での「陽気な」教えのイメージとは、ややそぐわない気がした。

一方、金光教の本部は、岡山県の旧金光町(現在は合併で浅口市)にある。川と山とが迫るかなり手狭な場所であるのは、幕末に農民だった開祖が立教した土地だからだろうか。もちろん本部内はきれいに整備され、二つの大きな会堂が威容を示してはいる。金光町出身の早大教授田辺泰(1899-1982)の設計によるもので、こちらは西洋の神殿のようなシンプルな建物の上部に神社風の屋根をのせた形状である。驚いたのは、本部の周辺に狭い路地が残り、古い民家が建て込んでいることだ。それが開祖の出自を反映しているようで、好ましく思える。駅からの参道も、ひなびた駅前商店街のようだ。

「昔は電車のお参りが中心でこの店でも一度に200人くらい泊めたけれど、今はバスの日帰りで人が寄らなくなりました」と、酒屋のおかみさんの嘆きを聞くこともできた。

 

親と子

この春から長男が新しく住むようになった街へ、親子三人で長距離ドライブをした。マンションの部屋や勤め先を見たり、近所の観光地を家族四人でぶらぶら歩いたりする。

僕がかつて東京から千キロ離れた街で一人暮らしを始めたときにも、両親は訪ねてきた。だから、長男の居心地が悪いような気持ちもなんとなくわかる。こちらもついつい、仕事の心構えなど念押ししたりしてしまう。

長男の子育てでは、受験の時も、大学生活や就職活動についても、多少のかかわりをもった。彼にはうっとうしかったはずだが、それができたのは、親子がほぼ共通の生活体験を持っているからだ。英語の受験問題は長文ばかりとなり、就職試験の申し込みがネットになっても、ベースは変わらない。

敗戦前後の混乱期に青春をむかえた僕の両親は、戦後の高度成長以後の新しいシステムに組み込まれる子どもたちに、アドバイスする言葉を持てなかったのだと思う。その代り、戦争の体験について繰り返し聞かされた。当時はよく親子や世代の断絶とかが当たり前のように話題になっていたが、それには特異な時代背景があったのかもしれない。

今はまた時代の変化が声高に語られるようになっている。子どもたちは、その次の世代にどんな経験をつなぎ、どんな言葉を語ることになるのだろうか。

 

 

 

里山の恐怖(その2)

ヒラトモ様のことは、村のお年寄りからの聞き取りと、幕末以来の文献で、薄皮をはぐようにわかってきた。それとともに恐怖の気持ちも薄らいできた。

おそらく事実はこうだ。初めは、時代のわからない武人の墓が山頂にあるだけだった。幕末に村人が盗掘のタタリを避けるために墓石を用いホコラ(これが今のヒラトモ様)を建てた。やがてこの地域の平家落人伝説の影響で、平氏の武将の墓と噂が広がり、戦争の時代、いくさの神様としてもてはやされた。村の婦人会が毎月交代で戦勝祈願のオコモリを行い、さかんに木刀が奉納されたという。鋭く曲がった木の根の供え物は、その記憶によるのだろう。戦後、平和の時代になると、軍国主義の遺物として忘れさられ、無名の石のホコラにもどったのだ。

考えてみれば、日本の近代の歴史に振り回された気の毒な神様である。僕は、平家物語の文庫本を持って山に上がり、平知盛の最期の場面をホコラの前で朗読した。一度は平家の名将としてまつられたヒラトモ様への供養になるとおもったからだ。

「見るべきほどのことは見つ、今はただ自害せん」と知盛が万感の思いを込めた辞世の言葉でしめくくって頭を下げる。するとこの時、ホコラの内側の壁に真新しく濡れた跡がついているのに気づいた。

村里の恐怖

ムツ子さんは、大井村で庄屋を務めた旧家にお嫁に来た。屋敷の裏手には、大きな銀杏の木があり、根元に扁平な大きな石が立ててある。イシボトケ様と呼ばれ、先祖の山伏をまつっているという。冬になると、銀杏はすっかり黄色い葉を落とし、それが屋敷の前の道を敷き詰める。近所から苦情があるのだと、ムツ子さんは、腰の曲がった身体で毎朝落ち葉をひろうが、とても追いつかなくなった。

神様の銀杏の枝は決して切ってはならぬと、言い伝えられている。しかし、高齢のムツ子さんに大木の管理は限界だった。かつて親戚一同でイシボトケ様にお参りした行事も今はなく、山伏のいわれを知っているのも彼女だけになった。大井川はせき止められてダムとなり、里山は削られて住宅で埋め尽くされた。

とうとうムツ子さんは、銀杏の木を切ることを決意する。寺の住職にお経を読んでもらってから、剪定業者の手で銀杏は半分くらいの高さになり、枝も取り払われて小さなまるぼうずの姿となった。これが春の4月のことだった。

大井村の田んぼの真中には、村の名前のいわれとなった泉(水神様)の脇に、一本松が立っている。この木にも触るとたたりを受けるという言い伝えがある。ところが、この立派な神木が、この年の夏の8月の台風で太い幹からぽっきり折れて倒れてしまった。同じころ、ムツ子さんも家の中で転んで大けがをしてしまい、それから入院生活を続けている。

 

 

里山の恐怖

荒神』には実際の山村のリアリティや怖さが描かれていないと書いた。大井川近辺での体験から、それを拾い出してみる。

もう3年以上前のことだ。半世紀前に出版された地元の郷土史家の聞き書きで、大井村の里山にヒラトモ様という神様が祀られていることを知ったが、その本以外、その神様についての情報はまったく見当たらなかった。大井周辺の山はかなり開発されている(僕の自宅も旧里山の住宅団地)ので、もう壊されるか移されるかしてしまったのかもしれない。あきらめきれずに聞き取りを続けると、心当たりがあるという農家の老人に出会った。山道を行くと大きな二股の木があって、その先道が三本に分かれる。真中の傾斜のきつい道を登っていくとその先にあるのだと。今はどうなっているかわからないが、と老人は付け加えた。どうやら信仰はすたれてしまっているらしい。

雑木林の傾斜地にはもう道などなくて、木の幹や枝に手をかけながら息を切らして登っていく。やや開けた山頂付近の林の中に、一段高い土地があって、近づくと木々に囲まれるように古びたほこらが鎮座していた。それは通常の加工された石材だけでなく、大きな平たい自然石を屋根にして作られていたから、苔むした姿は生き物のようにも見える。またいっそう奇妙なのは、大小のうねうねと曲がったたくさんの木の棒が、ほこらに立てかけられていたことだ。間違いなく誰かが奉納したものだが、そんなお供えものをみたことはない。無人の山上で、僕は何かのタブーを犯してしまったのではないかと怖くなった。遠くではイノシシ狩りの猟銃の音が響いており、その音に追われるように、足早に神域をあとにした。

それから10日ばかりたって、実家で一人暮らしをする母親からの電話で、出張中の僕を装った男から、オレオレ詐欺の被害を受けたことを知った。晴天の霹靂だった。被害額は目玉が飛び出るほどの大金だ。僕はすぐにヒラトモ様のことを考えた。その時は、僕が山の中で余計な事をしてしまったことと無関係だとはとても思えなかったのだ。しかし山の神の祟りなどと口にすることはできなかった。