大井川通信

大井川あたりの事ども

『わたしの濹東綺譚』 安岡章太郎 1999

『濹東綺譚』好きだった父親の蔵書。立川駅ビルのオリオン書店の、出版年の日付のレシートがはさんである。出版を待ちかねて購入したのだろうか。

『濹東綺譚』出版前後の社会情勢や文壇の裏事情について、安岡章太郎(1920-2013)本人の体験も交えて、気ままに筆を運んでいる。木村荘八の挿絵の引用や、荷風の撮ったものを含む当時の写真のページも多く、気楽に読み通すことができた。

『濹東綺譚』の執筆された昭和11年(1936)には、2・26事件が起きており、翌昭和12年(1937)の新聞連載終了の直後には、日中戦争の引き金となる盧溝橋事件が起きている。当時他の新聞に連載されていた横光利一の『旅愁』に人気で大きく水を開けていたというエピソードも面白い。

「何度も言うように、季節の変わり目がこの小説の主題であり、人の生別死別に匹敵する程ドラマの激しさを感じさせるものが其処にある」

季節の代わり目が主題である、ということの意味が、今回の再読ではようやくわかったような気がする。偶然にも再読のタイミングが、小説のクライマックスにあたる夏の終わりであるのも良かった。

 

「濹東奇譚はここに筆を擱くべきであろう。然しながら若しここに古風な小説的結末をつけようと欲するならば、半年或は一年の後、わたくしが偶然思いがけない処で、既に素人になっているお雪と廻り逢う一節を書添えればよいであろう。猶又、この偶然の邂逅をして更に感傷的ならしめようと思ったなら、摺れちがう自動車とか或は列車の窓から、互に顔を見合しながら、言葉を交したいにも交すことことの出来ない場面を設ければよいであろう。楓葉萩花(ふうようてきか)秋は瑟々(しつしつ)たる刀禰(とね)川あたりの渡船で摺れちがう処などは、殊に妙であろう」

 

父親がいつも朗読して耳に残っている小説の末尾近くを、安岡もまた、「哀感の絶頂をきわめた」名文として引用している。決して父親独自の趣味嗜好ではなかったのだ。荷風の文章が、いかに当時の若者の心をつかんだかをうかがい知ることができる。

 

『ほんのにわ』 みやざきひろかず 2018

みやざきひろかず(1951-)の新作絵本を、少し遅くなったが手に入れて読む。完全オリジナル作品で、大人向けであることからも期待がたかまる。

はじめはストーリーを中心に足早に読んでしまったので、絵もいいし、展開も面白いにもかかわらず、なんとなくふに落ちないというか、奥歯にものがはさまったような違和感があって、作品の世界に浸りきることができなかった。

「ほんのにわ」というネーミング自体が、しっくりこなかったのだ。しかし、なんといってもみやざきひろかずの作品だ。引っかかるところにも、なにか別の意図や工夫がかくされているはずだ。そう思って何度か繰り返しよむうちに、その謎がとけるような感じがした。

この作品の面白さの中心は、本の中に描かれた不思議な庭の世界に、主人公の庭師が入り込む、というストーリーにある。だから「ほんのにわ」なのだ。

庭師が本を開いたまま寝たときに、鳥が運んできた種といっしょに「ほんのにわ」の絵に雨がかかってしまい、本にはさまれた種と描かれた庭の植物が発芽してしまう、という展開は魅力的だ。庭師が現実の世界に戻ったあとも、忘れ物の帽子が「ほんのにわ」の中に残っているというオチもしゃれている。

たぶん子ども向けなら、このシンプルな筋で一冊にしただろう。けれど、作者は、庭師の親子関係というモチーフをそこに盛り込んでいるのだ。

この本は、庭師の死んだ父親の書いた本ということになり、「ほんのにわ」のアイデアも庭師が子ども時代に落書きしたものがもとになっていたのだ。しかし、親密な親子関係のリアリティが前面に出てくると、荒唐無稽なストーリーとのつなぎ目にほころびがみえてしまう。気になってしまう。

庭師だった父親に、なぜそんな不思議な本を作り出す力があったのか。息子が空想で描いた庭の名前が、なぜ「ほんのにわ」なのか。「こどものにわ」とか「ゆめのにわ」とかならわかるのだけれども。一読後の違和感のもとは、やはりこのネーミングによるところが大きい。

しかし繰り返し読むと、やはりこの親子のモチーフが、作品の世界にふくらみを与え、大人の読者にも訴える力を与えていることに気づく。ストーリーの飛躍や欠落が、多くの文学作品と同じように、読み手の想像力を刺激し、新たな読みの世界へと誘ってくれるのだ。

 

 

女王の交代

昨秋から、クモを観察するようになった。職場近くの林には、ジョロウグモのクモの巣があちこちにかかっている。自分の巣にぐるぐる巻きに絡まったときに脱出できるか、とか無慈悲な実験をやってみたりした。冬が深まると、巣の数は減っていくのだが、大寒波の中、年を越した命強い個体がいるのには驚いた。

ジョロウグモは、胴体も足も黒色と黄色の縞模様で、腹の下には毒々しい赤色が入る。とても目立つが不気味だ。虫好きの子どものときでさえ、敬遠していた記憶がある。

ところで図鑑をみると、全身黒と黄の縞模様の大型のクモに、コガネグモという種類がある。名前を覚えているから、子どもの頃はこちらも見かけていた気がする。ところが、今は林の中や家の近所で見かけるのは、ジョロウグモばかりである。

新しい図鑑の解説をみると、近ごろはコガネグモは都会から姿を消したとあるから、もともと環境の変化への適応力ではジョロウグモに劣っているのかもしれない。しかし家の近所は、じゅうぶんな自然も残っている。

少し前の新聞にクモのことがかかれた記事があって、コガネグモを「夏の女王」、ジョロウグモを「秋の女王」と解説していて、膝をたたいた。出現の時期が違っているのだ。

今年の夏はゲンゴロウを探している時に、田んぼのわきの用水路をまたいで巣をはっているコガネグモを何匹も見つけることができた。田んぼの近く以外では見ないので、おそらくそこに生存や繁殖に不可欠な何かがあるのだろう。都市化で姿を消したのがわかる気がする。ジョロウグモより胴体に丸みがあるから大きく見えて、縞模様も虎のように太くはっきりしている。女王というより、王様という感じ。しかし予備知識がなければ、ジョロウグモと思って見過ごしていただろう。

一方、ジョロウグモの方は、夏の初めから小さな個体を見かけてはいたが、近ごろはその数も増え、また身体も少しずつ成長してきている。秋も深まれば、林や庭のあちこちで、女王という名にふさわしい立派に成熟した姿をみせてくれるにちがいない。

 

僕の短歌

何事についても、それを考えるための手がかりは、自分が生きてきた時間と空間のうちにある。そこで短歌については、まず伯父とのかかわりが出てきた。では、僕自身、短歌を意識して作ったことはあるのか。これはまったく記憶にない。

詩なら、学生時代の草稿は数百はあるかもしれない。俳句も思い付きでつくったことがある。あれこれ思いめぐらしてたら、数年前に短歌めいたものが自然と口をついて出てきたことを思い出した。

僕の友人で、公立図書館の司書をしている人がいる。レファレンスの仕事をしていると、いろんな人がやってきて、その人なりの様々な疑問を携えてくるのだという。彼女は、来館者の人生や生活を背景にした問いに対して、答えを見つける手伝いをすることにやりがいを感じている、と話してくれた。

この話は、僕にはとても新鮮に聞こえた。僕自身は、子どもの頃から本屋も図書館も古書店も大好きな場所だったが、とにかく人にものを尋ねるのは苦手だったから、どんなことも自分で調べていただろうし、そもそも僕にとって図書館は目的をもっていく場所ではなく、本に囲まれた居心地の良い環境だったのだ。

「図書館は小さな問いを携えて人来る場所と友はいうなり」

そこで僕は即興でこんな短歌をつくって、彼女に話した。意識して作ったというより、口先でその発見をつぶやいていたら、自然と短歌の韻律になっていたというのが真相だろう。そのあと、メールのやりとりでこの歌のことがもう一度話題になったこともあって、いっそう印象に残ることになった。

その時は新鮮な言葉や思想、新しい気づきも、たいていは忘れ去られてしまう。それを少し工夫して短歌という容器に入れておきさえすれば、持ちがまったく違うのだ。と同時に、他者との間で自由にキャッチボールできるものとなる。

やや遅きに失した感じはあるが、この便利な容器を生活のなかで(とくに大井川歩きの場面で)使わない手はない、と思い始めている。

 

皇后美智子の短歌

読書会で永田和宏の『現代秀歌』を課題図書にした。哲学書思想書を扱う読書会なのだが、僕の選書の順番だったので、そもそも短歌とな何なのか、という問いを短歌とはすこし距離のある場所で話し合うことができたら、というのが目論見だった。そのことを通じて、短歌が今も若い人たちに受け入れられている理由についても考えてみたかった。

結論からいうと、この目論見はうまくいかなかった。

ふだん短歌を読まない人でも、短歌ということになると、その世界にすっと入って、感情移入したり、その巧拙を論じたりすることが、ふつうにできてしまう。それほど短歌という形式は、我々日本人の身内の食い込んでいるのだ。そうなると、身内から引きはがしてこの形式について論じることは、かえって難しくなる。

「かの時に我がとらざりし分去(わかさ)れの片への道はいづこに行きけむ」

僕が、この本で取り上げられている短歌の中で、一番の驚きを受けたのは皇后美智子のこの歌だった。この驚きというのは、短歌という器や形式に対する驚きといっていい。それでこの歌を、僕はまっさきに取り上げた。

結婚後30数年が経って、結婚当時を振り返って、皇太子妃になるという選択をしなかったらどんな道をあゆんでいただろうか、と普通に解釈できる歌だ。こういう感想はありきたりなものだ、それを皇室の人間が詠んでいるから評価するのはおかしい、というのが参加者の感想だった。僕のひねくれた「驚き」に共感してくれる意見は皆無だった。

あのとき別の学校や仕事を選んでいたのなら、という想定は日常的なものだ。別の相手と結婚していたら、もっといい人生が遅れたのに、という思いもありがちだが、それを口にするのは難しい。配偶者との関係もあるし、そもそもこの婚姻に基づいて生まれた子どもの存在を全否定することになるからだ。公の場所で口にしたら非常識な発言と判断されるのがおちだろう。

まして天皇家である。人格者として知られる現皇太后である。平成7年の文化の日に「道」という題のもとに作られて公にされた一首だ。この内容がなんの驚きももたらさずに、たんたんと受け渡されているとしたら、その理由は、短歌という器(形式)にあると考えるしかない。

短歌という器のなかでは、日常生活に中でより感情表現の自由度は格段にます。むしろ感情表現の過激化、先鋭化、劇場化が短歌の条件となる。皇后美智子の歌を平凡に見せているのはこのメカニズムだろう。

日本社会は、伝統的に感情表現については抑制的な社会だ。近年多少変化が出てきたとはいっても、大筋は変わっていないだろう。この国で短歌が必要とされて、廃れることがないのは、このあたりに理由があるのかもしれない。

 

伯父の短歌

もう30年も前の話になるが、従兄が、同じ演劇人同士で結婚をしたとき、青山の会館で結婚式を挙げることになった。親戚同士の顔合わせの小規模な式だったから、当時東京で塾講師をしていた僕が司会を頼まれた。

式が終わったあと、伯父から手渡された鉛筆書きの紙片が手元に残っている。

「安彦の色きよげなる幼な顔司会を聞きつつ瞼に浮かぶも」

伯父の家は、同じ敷地にあって、僕が生まれてからの姿をずっと見てくれていた。幼かった僕が自分の息子の結婚式の司会をつとめたことの感慨と感謝を、短歌に託して伝えてくれたのだろう。

それからしばらくして、僕は九州に転居して、自分の家を持つようになった。その時のお祝いに添えられた便せんには、こんな短歌が記されていた。

玄界灘波風荒き今の世に新家(にいや)建てしと聞くが嬉しさ」

感謝や祝意は、その場で言葉に出せば、十分伝わるものだ。しかし、人間の感情ほど揺れ動くものはなく、記憶も確かなものではまったくない。暴風雨のような時間の経過が、あいまいなやり取りなどすべて押し流してしまう。

その時、短歌という器を用いると、一期一会のやり取りや瞬間の感情を凍結させて、真空パックのように鮮度を保って保存することができるのだ。おそらくこの二首は、僕以外の読者を期待して作られてはいない。伯父が亡くなって15年以上がたつが、たまに取り出して伯父を偲ぶよすがとしているから、その役割を十二分に果たしていることになる。

短歌とは不思議なものだ。作品の巧拙といったこととは次元の違うところで、人間にとって必要不可欠な何かをみたす手段ともなっている。若い人たちの間で短歌がすたれる気配がないのも理解できるような気がする。

ところで、今回昔のメモを探していて、伯父の残した俳句を見つけた。伯父は世間的には僕の父親よりも日の当たる道を歩んだが、文学趣味が共通する弟を認めているところがあったのだろう。

紫蘭(しらん)出づ大隠弟この町に」

詞書には「弟に『大隠(たいいん)は朝市(ちょうし)に隠る』と」と添えられている。真の隠者は山野などには隠れ住まず、俗人にまじって町中で超然として暮らしている、という故事にならって、工場勤めをしながら書物の世界にあそぶ弟をもちあげたのだろう。両者を知る僕には、懐かしくもほほえましい。

 

『長谷川龍生詩集』 現代詩文庫18 1969 

長谷川龍生(1928-2019)の訃報が、数日前の新聞にあった。年譜を見ると、僕の母親より一年早く生まれ、一年遅く生きたことになる。

手もとにある詩集を追悼の気持ちで読んでみると、これがけっこう面白い。1950年代に書かれた詩が中心なので、その時代の雰囲気が濃厚に感じられる。

工業と工場労働者たち。血と汗と体液と汚物にまみれて、傷ついた肉体。戦争の記憶。独裁者と革命家たち。イメージの飛躍と思わぬ結合。コミュニズムとシュールリアリズム。50年代の安部公房の小説や中村宏池田龍雄ルポルタージュ絵画を彷彿とさせるような諸要素だ。

「恐山」や「虎」などの長い力作も、いたずらに難解になることなく、とっつきやすいイメージを展開しながら、前者は「きみも、他人も、恐山」、後者は「虎、走る。/虎、走る。」のリフレインが効果的にリズムを生み出している。

短いものでは、彼の代名詞ともいえる「理髪店にて」が、やはり見事だ。ほかにも、こんな作品を見つけた。タイトルは「夜の甘藍(きゃべつ)」。

 

だれもいない/がらんとした/夜の野菜市場の/ぶあついコンクリートの上に/冬甘藍の山が、七つ八つ/盛り上げられたままにある。

まっ青な光を放ち/見上げる通り柱の/たかい天井のすみずみに/映りかがやいている

いま、ひとりの仲買人が/ジャンバーの襟を立てて/市場の中へ、影法師のように/さっと、入ってきた。/すると、甘藍の山肌を這っていた/時節はずれの二匹の青虫が/はたと、死んだように/動かなくなった。

外はまっくらだ/朝まで吹くつめたい風が/細いつららのあいだを/とおりぬけていく。

 

 キャベツというありふれたモノを注がれる視線が、それを別の世界の手触りと強度をもった何ものかへと作りかえている。それだけでなく、そこに物語、それも何か政治的な対立や緊張感をはらんだ物語を暗示させるところが、独自の魅力だ。

 

 

小説『失踪』を構想する

『濹東奇譚』の中で、主人公大江匡は、小説『失踪』を構想し、その資料を集めることを、町歩きの目的の一つとしている。しかし、作中、『失踪』は、家庭から出奔した元中学教師の種田が、女給のすみ子のアパートに逃れて、二人の将来について語りあうところで中断し、その後触れられることはない。

この作中の小説の結末を考えるという課題が出た。『失踪』が中断したのは、『濹東奇譚』という小説の展開には必然だったのだろうから、『失踪』を完成させるためには、『濹東奇譚』全体を再構成する必要があるだろう。その梗概は以下のようなものになった。

 

荷風は、向島玉の井に通いながら、その見聞を材料にして小説『失踪』の腹案を練っている。荷風はお雪との関係が深まるに連れて、『失踪』を完成させることよりも、お雪との交渉を私小説仕立てで描くことに関心が移る。主人公は荷風の分身大江匡となり、お雪は荷風好みに理想化されて、二人の別れも荷風の趣味嗜好で脚色される。

小説『濹東奇譚』の世間での好評を得た荷風は、久しぶりに玉の井をこっそり訪問するが、もはやお雪の姿はない。路地におでん屋を見つけてのぞくと、店を切り盛りするすみ子と、それを助ける種田の姿がある。

種田はあのあと、家族からうまく雲隠れをして失踪者として処理され、すみ子のもとで暮らしていた。おでん屋は繁昌し、すみ子の蓄えと種田の退職金をもとに、当地で私娼を抱える店を出す計画もあるという。

荷風は、小説『失踪』を放棄したことを二人に詫びる。しかし種田は、先生が『濹東奇譚』へと執筆方針を変更したおかげで、自分たちへの世間の注目が無くなり、ストーリーから自由に生きることができるようになったと、むしろ荷風に感謝をする。荷風は、種田への羨望を感じながら、玉の井をあとにする。

 

『濹東奇譚』 永井荷風 1937

読書会の課題図書だが、僕には思い出深い小説。手元には父親の形見の初版本の復刻版がある。

「濹東奇譚はここに筆を擱くべきであろう。然しながら若しここに古風な小説的結末をつけようと欲するならば、半年或は一年の後、わたくしが偶然思いがけない処で、既に素人になっているお雪と廻り逢う一節を書き添えればよいであろう」

大正13年生まれの父親が愛読して、この末尾の部分の前後をよく朗読していたのが耳にこびりついている。後年は堅物だった父親だが、玉の井の私娼との交流の物語のどこにそんなに魅了されたのだろうか。
新と旧、明と暗、権力と大衆等々の二項対立が力をもつようになった時代において、反時代的に徹底して後者(弱者)の側を選び取り、それを古風だけれども知的に洗練された文体で表現する手法が、魅力的だったのだろうと思う。
僕の学生の頃、デビューまもなくの村上春樹の『風の歌を聴け』(1979)を暗唱している友人がいた。反権力などの意味に憑かれた世相に対して、あえて無意味の側をスタイリッシュに表現する文体がとても新鮮だったのだ。突飛な連想かもしれないが、『濹東奇譚』とは、反時代的で知的な文体の魅力という点で共通しているのかもしれない。

ところで、この小説の原稿を書き上げた昭和11年には、荷風は57歳で、今の僕と同じ年齢だ。

荷風は明治と大正の時代の違いにこだわるが、荷風が明治の終焉を迎えたのが33歳の時だから、僕が昭和の終わりを体験した38歳とそう変わらない。また、東京の景観を一変させた関東大震災は、執筆の13年前。今から13年前なら、小泉郵政改革など新自由主義が大手を振るい出した頃だ。

近代化の渦中にあった当時の時代の変化のスピードが、今と比べて遜色ないことが、こんな単純な比較によっても実感できる。

 

 

 

小鳥たちの混群に包まれて

背の低い木々の明るい林の中を歩いているとき、突然、周囲に小鳥たちの気配がして、いつのまにか小鳥たちの群れに包まれている時ほど、鳥好きにとって至福の時間はないだろう。

これはおそらくカラ類の混群(いくつかの種類の小鳥が交ざった群)だろうと思い、視線をあげると、頭上の手が届きそうな枝々に、白っぽく尾の長い小さな鳥が、果物が生ったみたいにたくさんとまっている。エナガだ。近頃はその愛らしい姿が、写真集になったりもするアイドル的な小鳥。

するとヤマガラが二羽、低い枝を伝いながら、舞台に登場するように目の前にやってくる。エナガと同様に、人の姿をあまり恐れないのだ。昔はおみくじを引かせる芸などを仕込んだそうだが、その天性の性質を利用したのだろう。子どもがクレヨンでミカン色に塗りつけたような素朴な色合いの姿が好きだ。

やや遠くの木には、コゲラのまだら模様の姿も見える。小さくともキツツキらしく、さかんに枝の周囲をつつき回っている。

やがて、エナガたちが枝伝いに離れた木々へ次々に去っていくと、それを追うように、ヤマガラコゲラも飛び去ってしまい、林には、夢からさめたように明るい静寂が戻っていた。

あとで図鑑をみると、エナガの混群には、ほかにメジロシジュウカラやコガラ、それにキクイタダキも交じるケースが多いという。頭に黄色い菊の花びらをのせたようなキクイタダキの姿も、長い間みていない。

今年の夏は、虫ばかり追いかけていたけれども、そろそろ本業の鳥見に戻らなければ。今日は不意に肌寒さを感じるほど秋めいた日だった。