大井川通信

大井川あたりの事ども

ゲンゴロウとガムシの食欲

この夏は、十年ぶりくらいにゲンゴロウとガムシを飼っている。

大き目のガラス瓶の底に砂利をいれてたもので、ハイイロゲンゴロウを二匹。小さめのガラス瓶にも同じく砂利を入れて、ウスイロシマゲンゴロウとヒメガムシを飼っている。

エサは乾燥したイトミミズを固めたものを買ってきて、ちいさくちぎって与えているのだが、ハイイロゲンゴロウの瓶の水の汚れるのが本当に早い。こちらの方が一回り以上大きいし、とにかく活動的だから新陳代謝がはげしいのだろう。

少し前に、田んぼで小さなオタマジャクシを二匹つかまえてきて、それぞれの瓶に入れた。小さいといっても、ウスイロよりは大きいので、小瓶の方はしばらく生きているのかと思ったのだが、いちはやく食いついたのはウスイロだった。もちろんハイイロ二匹もすぐにたいらげてしまったが。

ところで、ヒメガムシは、体長10ミリ弱で、ちょうどウスイロと同じ大きさだ。色はスイカの種みたいに真っ黒で、薄い黄土色のハイイロより目立つ。ゲンゴロウがオールのような二本の後ろ足で上手に泳ぐのに対して、ガムシは六本の足をジタバタさせて水中で歩くように泳ぐ。

呼吸法は、ゲンゴロウがおしりの先から空気を取り入れて羽の裏にため込んでおくのに対して、ガムシは頭の脇から取り込んだ空気をお腹側にためている。水中で身体の下面が銀色に輝いているのは、そのためだ。一方、ゲンゴロウは、おしりの先に補助タンクの泡をつけている姿がとてもキュート。(瓶の中では、ハイイロはたいてい泡をつけているが、ウスイロはつけていない)

ガムシの成虫は基本草食と聞いていたので、水草を入れてあるが、目に見えて葉が減っているわけでもない。何を食べているのだろう。

今日、前回より大きなオタマジャクシを瓶に入れると、かわいらしい外見とは真逆で超攻撃的なウスイロは、すぐにしとめにいく。尾の根元に食いつくと、オタマジャクシは何回か痙攣してあっさり動きをとめてしまう。身体を麻痺させる何かを注入しているみたいだ。

やはり一度では食べきれずに、オタマジャクシは瓶の底に沈んでいる。しばらくして見に行くと、ヒメガムシが水面近くに浮かんで、オタマジャクシの白っぽい残骸をしっかりかかえて、それをむしゃむしゃと食べていたのだ。雑食で、なんでもありなのに驚く。

 

自分の子どもには最後までかかわらないといけない

職場の先輩のことば。

子育ては、むずかしい。自分ひとりが生きることだって、とてつもなく大変で、ふりかえれば欠落ばかりなのだから、まして他者の人生に大きく関与するふるまいが、うまくいかないのは当たり前なのかもしれない。

それなりに関わってきたつもりでも、足りないことが目立つ半面、過剰でやりすぎなところが気になったりする。うまくいかないことに腹をたてたり、うんざりしたりする。そんなとき、耳ざわりのいい、飛びつきたくなる言葉がある。

「もう子どもの自主性にまかせるべきではないか」

職場の先輩は、こうしてある時期、子どもへの関与を止めてしまったことを、深く後悔していた。たしかに過保護や押し付けは良くないけれども、実際にはとてもそこまでの関わりをしているわけではない。自主性の美名のもとに、必要最低限度のケアから撤退してしまう方が問題である、というのが、彼が得た教訓だった。

ちょうど子育てで悩んでいた時期だったので、彼の真情がよく共感できたためだろうか、彼の言葉はすなおに子育ての指針として僕にしみ込んで、その後、ずいぶんとこの言葉に助けられた。本来自己中心的で、なまけ癖のある僕には、自分を鞭打ってくれる指針なのだ。

先週には、他県に働いている長男から、仕事のことで相談の電話があった。次男の障害年金申請の面倒な手続きも、来週中には終わらせないといけない。一番身近な他者とのかかわりに区切りなどはない、ということだろう。

 

 

 

深夜の楼門

深夜に衛星放送を見ていたら、三億円事件をモデルにした昔の二時間ドラマ「父と子の炎」を放映していた。事件は未解決だけれども、フィクションで真犯人の姿を描いたものだ。

事件は、高度成長期の1968年。ドラマの制作は消費社会の入り口の1981年。この13年の時間差は、当時は相当大きく感じられたはずだ。ロケ地や役者の衣装なども、事件当時の雰囲気を出すように工夫している節がある。

犯人役の佐藤浩市が、父親の白バイ警官の若山富三郎と住む家は、都営住宅風の古い平屋の木造住宅だ。立川駅の駅舎も跨線橋も、街並みも、どこか懐かしい「貧乏くさい」たたずまいをおびている。大きな資本が投下されて、郊外の街が本格的にキンピカに変貌していくのは、さらに10年くらい先のことだろう。

事件の舞台になった東京多摩地区の府中や国分寺は、僕の故郷だ。事件現場の府中刑務所脇も、犯人が逃走に利用した国分寺跡もなじみぶかい。ドラマのラストに、父親が犯人の息子の墓参りをする場面があるのだが、そこで突然、現国分寺の小さな楼門がクローズアップされた。楼門脇の墓所をロケ地にしていたのだ。

国分寺楼門は、子どもの頃の僕には一番身近な古建築だった。江戸後期の小ぶりだがさっぱりとした造型で、白木が美しい。こんもりと老木の生えた参道の先にあって、寺院の門前の広場に建っており、周囲からながめられるというロケーションもよい。

有名な文化財が近所になくても、この楼門に身近に接していたから、古建築の魅力に気づくことができたのだろう。僕にはかけがいのない建物だ。

現代は、様々な情報が氾濫し、どんな映像にもたちどころにアクセスできるようになった。いずれ簡単な検索で、貴重な映像を手軽に見ることができるようになるかもしれない。しかし、深夜のこんな偶然の出会いの喜びには、まさることがないだろう。

 

 

ネタ作り

漫才師でもお笑いタレントでもないけれど、僕は、いつもネタ作りに励んでいる。ネタといっても、面白い話のネタ、といったほどのものだ。意図してやっているというより、無意識のうちに、結果的にそうしてしまっているのだ。

こんなふうに毎日ブログを書いているのも、新しい話のネタを探して、そのネタ帳を作っているという側面が強い気がする。もちろん、大方は失敗作だが、ゆくゆくはブレイクする可能性の断片をはらんでいる文章もあるかもしれない。

面白さの基準は、もちろん僕自身の中にあるけれども、やっぱり聞き手に喜んでもらえたほうがいい。だから、いいネタを作るためには、できるだけ多く人に話してみるほかない。一番最近僕が面白いと思ったネタは、ゲンゴロウは何故絶滅しかけているのか、というもので数日前のブログに書いたものだ。

実はすでにこのネタは、知人の前で二回も「板にかけて」いる。ところが、話の途中で、相手の目がどんどん死んでいくのがわかった。たしかにちょっと長い。しかし、日本の本来の自然が現在そう思われているみたいな穏やかな田園風景ではなく、荒れる川と周辺の湿地帯であったという結論は、だからそこを住処としたゲンゴロウにはもう帰る場所がない、という答えとともに、かなり意外で刺激的なはずだ。

はずだ、といくら言っても、相手の目が死んでいくのを止めることはできない。ようは、みんなゲンゴロウという虫をよく知らないのだ。絶滅しかかっているのだから、無理もない。その知らないモノの話は、どんなに熱弁しようとも、退屈なのだ。

二回のネタ見せで、僕はこの真実に気づく。実は、今日、公の場で、子どもたち相手に短い話をする機会があって、このネタ見せでの失敗がなかったら、得意げにゲンゴロウの話をして、子どもたちの眠気をさそっていたかもしれない。

しかし、この失敗の経験によって、話題を変更することができた。クマゼミは卵で1年、地中の幼虫で7年過ごしたあと、成虫になること。だから、今年鳴いている成虫は、2011年東日本大震災の年の夏に鳴いていたセミの子どもであること。セミがゆっくり成虫となるのはなぜなのか。少なくともそのことで、木の根から過剰に養分を奪うことなく、木を枯らすことはない。誰もが知るクマゼミの話題は、子どもたちの心を引きつけることができたと思う。

では、ゲンゴロウのネタはお払い箱になったのか。別の機会に、本論を思い切って省略して、聞き手の目が死んでしまったことをオチにして、さっそく笑いをとってしまった。今回の記事も、それと同じバージョンだ。転んでもただでは起きない、のがネタ作りの鉄則です。

 

吃驚する啄木

何すれば/此処(ここ)に我ありや/時にかく打驚きて室(へや)を眺むる

 

石川啄木の『一握の砂』の中で、この歌は、有名な「友がみなわれよりえらく見ゆる日よ/花を買ひ来て/妻としたしむ」の次に置かれている。

すると、先の歌が、不本意で不甲斐ない自分を半ば受けとめ、暮らしの中でささやかな慰めを得るのにたいし、後につづく歌では、そんな境遇に甘んじている自分をするどく拒絶しているようにも読めるだろう。

本来あるべき自分と、現在の自分。本来いるべき場所と、実際のみじめな場所。その比較の意識は、たえず啄木を苦しめていたはずだ。しかし、だとしたら、あらためて「どうしたらいったい、ここに自分がいるのか?」という力強い、真正面からの問いが生まれてくるものだろうか。

この問いは、二つの場所を比較したうえで、なぜ自分が一方の場所にいるのか、と問うものではない。端的に「此処」を問題にしていると考えるべきなのだ。

僕たちは時々、物思いや読書をしている時、時間の意識や方向感覚を見失って、ふと我に返るということがある。その刹那の感覚を歌にしたと考えるほうが、まだふさわしいかもしれない。しかし、そう考えるなら、「驚いて、自分のいる部屋をながめる」という振る舞いが、大げさにすぎるように思えるのだ。

比ゆ的に言えば、こうなるだろうか。地球外の宇宙の、まったく別の時間、別の空間、別の論理のもとに生きていた何ものかが、突然、地上のとある安下宿の一室に投げ込まれる。きっと新たな生誕の瞬間のような衝撃を受けるだろう。

「どうしていったいここに自分がいるのか、驚いて部屋をながめる」という、この歌の強い調子は、そんな状況にこそふさわしい。この歌集の中では異質な、存在の問いをはらんだ一首。

 

諸星大二郎の通勤電車

通勤電車に乗る人間は、電車内の人間たちだけでなく、沿線の風景にも無関心になる。これは僕にも経験があるが、たとえば沿線の途中の駅について、何年も同じ路線を通っていて、定期券でいくらでも途中下車が可能であるにもかかわらず、特別な用でもなければ、いちいち降りてみたりすることはまれだろう。

僕が東京にいたころ、通学の路線が途中から地下に潜って3駅目が、大学の最寄り駅だった。2駅目は大きなターミナルだったからよく利用したが、1つめの下落合という駅は、結局四年間で一度も地上の様子をたしかめることはなかった。そんなものだ。

ある統合失調症の患者の記録を読んでいたら、まわりの風景は厚みをなくし、人間は人形(ヒトカタ)へ、家並みは家形(イエカタ)へと変貌をとげる。消されてしまった本物の世界(オトチ)への強烈な欲望のみが空転する、とある。

通勤者たちが、ヒトカタやイエカタの囲まれながら、平常心を保てるのは、通勤の前後に家庭や職場といった本物の世界があることを確信しているからだろう。今では、スマホをにぎりしめ、自分のオトチと直接つながっている人がほとんどになった。

では、通勤時間のヒトカタやイエカタ自体に関心をもってしまったら、人間はいったいどうなるのか。諸星大二郎の初期の短編「不安の立像」は、この一点をえぐるように描いている。

主人公は、夕刻の通勤電車の窓から、いつも同じ線路わきに黒い布ですっぽり全身を隠して、じっとたたずむ姿があることに気づき、気になりだす。通勤客や駅員に尋ねても、誰もがまったく無関心であるという事実に、妙なリアリティがある。

彼は執拗にその「立像」が何者なのかを突き止めようとして、その恐るべき正体の一端に触れてしまう。それは、この日常の世界では触れてはならない禁忌(タブー)だったのだ。以後、彼は共同の黙契に従い、車窓には無関心な通勤者を演じるようになる。

諸星さんの若いころの公務員時代の経験が下敷きになっているのだろうか。鋭い洞察力と日常にまぎれる異類を描く力には敬服するしかない。

 

 

啄木の通勤電車

読書会で、石川啄木(1886-1912)の歌集『一握の砂』(1910)を読む。啄木24歳での、生前出版された唯一の歌集だ。全551首のうち、通勤電車の風景を詠んでいると思われる歌が三首ある。

 

こみ会へる電車の隅に/ちぢこまる/ゆふべゆふべの我のいとしさ

いつも逢ふ電車の中の小男の/稜(かど)ある眼(まなこ)/このごろ気になる

人ありて電車のなかに唾を吐く/それにも/心いたまむとしき

 

僕は以前から、通勤電車の空間というものの異様さが気になっていた。そもそも都市は見知らぬ無数の人間と顔を合わせて生活する場所だが、通勤電車の中では、人間同志が手持ちぶさたで至近距離に存在しながら「儀礼的無関心」を一定時間装わなければならない、という意味で、きわめて特異な場所だ。自分以外の他人を、まるで厚みの無い人形のように扱う点では、統合失調症の心的風景に近いのかもしれない。

啄木は故郷を出た後、文学を志して上京を繰り返したり、家族を養うために地方を転々としたりしたが、歌集出版の前年にようやく朝日新聞の校正係としての職を得ている。我々にとってはすでに見慣れた日常の通勤電車にも、啄木はヒリヒリするような違和を感じざるをえなかったのだろう。

一首目では、人形のように縮小する自分自身を、また二首目、三首目では人形同士の「無関心」におさまらない興味や嫌悪を描いている。

 

戦没者の概数

終戦記念日の翌日の新聞朝刊に、日本人の戦没者の概数を示す地図が掲載されていた。日本軍の最大勢力範囲を示す赤線の内側に、地域別に大小の円の大きさで戦死者の概数を表していた。

例年この時期には、戦争に関する報道が多くなる。子どもの頃から、多くの映像や情報に接してきたが、シンプルなこの図表を通して、あらためて戦争の実態を再認識した気がする。

まずは、戦没者(軍人ほか一般邦人も含む)は、310万人。やはりこれはとんでもない数字だ。

日本本土が70万人に対して、沖縄での死者は19万人。沖縄での戦闘の厳しさを物語る。

大陸での死没者は、本土沖縄に匹敵する88万人。東南アジアでは、本土を上回る76万人。太平洋の諸島では、57万人。

いかに戦争が、外国の土地に足を踏み入れて、そこを戦場としていたかがわかる。戦争には相手があるし、戦闘の巻き添えをくった人たちも多かっただろう。日本人以外の戦没者の数も、膨大なものとなっているはずだ。

この記事にはないが、海外からの引揚者は、500万人に及ぶ。この戦没者と引揚者の人数が、当時の日本が、近隣諸国に対して、どのような力を及ぼし、どのような影響を行使していたかを冷徹に物語る。彼らは旅行者ではない。戦争のためか、あるいは国益及び私益を求めて渡航していたのだ。

この事実の記憶がリアルにある間は、日本人が時の為政者に対して多分に批判的であり、近隣諸国に対して謝罪や反省の意識が基調にあったことは、むしろ当然だったと理解できる。

この記憶を失えば、どのような牽強付会も可能だろう。しかし、この一枚の図表は、まっすぐに我々の負の原点を指し示している。

 

水田という演劇空間

以前、長期の演劇ワークショップに参加したとき、演出家の多田淳之介さんから教えられたのは、舞台の空間全体を見渡して、そこここで行われていることに反応する、ということだった。これは演者として舞台にたっているときだけではなく、観劇するときのコツでもあるだろう。

演劇とは、舞台空間そのものを提示する試みだ。ストーリーでも役者でもない、主役は空間それ自体であるのだから。

ワークショップの帰り道、中華料理の王将に立ち寄ったときのことだ。王将では、カウンターごしに厨房全体を見とおすことができる。僕のような腹が減って金のないお客たちからのひっきりなしの注文にこたえて、大勢の料理人と配膳係が忙しく立ち働いている。

そのすべての動きが、いちどきに視野に入ってきて、一つの舞台のように僕に迫ってきたのだ。一見バラバラの動きだが、それらは有機的につながり、絡まり合っているようで面白い。演劇で鍛えた視野のおかげだと思った。

今朝、久しぶりに、小さな網とビニール袋を持って、ゲンゴロウを捕りにいく。水田の脇に幅2メートル、長さ10メートルばかりの長方形に水をはった場所があって、傾斜した地面の先まで行ってしゃがむと、足もとから広がる水面を観察することができる。雑草もない水面は、浅いプールみたいで、初めは何も見えない。

やがて目が慣れてくると、水底に広がる泥土にひそんだハイイロゲンゴロウが、酸素補給のために素早く水面にあがり、また降りていく様子をとらえることができる。別のゲンゴロウは、水面付近で円を描いたり、S字を描いたり激しく泳ぎながら、また泥土に身をかくす。何もないかに見えた空間が、今では、あちこちで思い思いに泳ぎ回るゲンゴロウたちの劇場に変貌するのだ。

やがて、ハイイロゲンゴロウよりも、もっと小さな微細な動きが目に入ってくる。泥土から泥土へ矢印のような直線的な動きを見せるのは、小さなオタマジャクシだ。動きを止めると、ほとんど泥と区別がつかない。水底を、ゆっくり移動するのは小さな怪獣めいた輪郭を持つヤゴだ。ほんの数ミリくらいの、ゲンゴロウやガムシの動きも気になってくる。

そこへ、突然、上空から水面ぎりぎりに赤とんぼの襲撃をうける。水中の数ミリの虫の動きに同化してしまった僕にとって、体長わずか3、4センチのトンボが、巨大な爆撃機のようにも思えたのだ。

再び水中に視線をおとすと、相変わらずそこには様々な場面が同時並行で進行している。大きく二本の足を広げた姿が特徴的な小さなマツモムシが、二匹重なって交尾しながらゆっくり流されていく。邪魔しないように、僕はそっと見守った。

 

『田んぼの生きものたち ゲンゴロウ』 市川憲平 2010

子ども向けの写真絵本の体裁をとっているけれども、ゲンゴロウの生態についての総合的な知見を得ることができる本で、類書はなく、出版当時は、驚くとともに喜んだ。

著者の市川憲平(1950-)は、以前にタガメの繁殖戦略についての研究を、子どもむけの物語にした本を読んだことがある。専門的な内容を、わかりやすく伝えることのできる研究者なのだろう。後書きを読むと、その背景に、水生甲虫へのこんな思いがあることを知る。

ゲンゴロウ類の野外での生態、特に中小型種の生態については、まだほとんどわかっていません。オオゲンゴロウが野外で何年生きるのか、実はこれすらわかっていないのです。生態がわからなければ、保全もできません。水生甲虫類の研究を目指す子どもたちが増えていくことを祈ります」

この「祈り」があるからこそ、の本書なのだろう。

今回、読み通してみて、ずいぶん勉強になった。ゲンゴロウという種は、なんでこんなに急激に絶滅の危機に陥っているのか。そのおおざっぱなイメージを得ることができたのだ。

カブトムシは、人間が作り出した里山に適応して繁殖を広げることができたけれども、里山の荒廃とともに、もといた山に帰ることができた。山にも植林等の改変が加えられているといっても、カブトムシの生息できる自然林はある程度残されているだろう。

日本の平野は、大雨のたびに洪水となる沼地や湿地が多くあり、そこにゲンゴロウは暮らしていたのだ。人間が川の整備をして、ため池や水路をつくり、田んぼを作るようになると、稲作のサイクルにあわせて田んぼを利用し、繁殖するようになる。

しかし、致命的な農薬の使用にとともに、産卵する水草も蛹になる土のあぜも消えてゆき、農法の変化で、水苗代が消滅して田んぼに水が入る時期も遅くなり、水抜きする中干しも行われるようになる。また、ため池にもアメリカザリガニブラックバスなどの天敵が入り込む。

つまり、田んぼ自体がゲンゴロウの生息を許さなくなったにもかかわらず、ゲンゴロウの帰るべき沼地や湿地は、もはや農地や宅地に変わっていて存在していないのだ。だから、ゲンゴロウは、絶滅するか、自然農法の田んぼや環境の良いため池に追いやられてしまうことになる。

大井川の周辺でふつうに見ることのできるハイイロゲンゴロウは、こうした環境の激変の中でしたたかに生存している。田んぼに水のない長い期間、また中干しの間には、いったいどこでどんな暮らしをしているのだろう。けして近くはないため池ですら水を抜かれてしまうのだ。

著者によると、中小型種の生態はほとんどわかっていないらしい。僕には本格的な研究は無理でも、歩きながら、いろんな空想は楽しんでみたい。