大井川通信

大井川あたりの事ども

こんな夢をみた(初夢)

ある知人が弁舌さわやかに話をするのを聞く。僕が尊敬し好きな知人だ。しかし、そのあと迷い込んだ路地で、偶然彼の別れた奥さんがやっているスナックのような店に足をいれてしまう。彼女は、元だんなは言葉が巧みだけれども・・・と言って言葉をにごす。

いつの間にかそこは、僕の両親が暮らしている家になっている。母親をささいなことで怒っている父親に、もういい歳なのだから、と意見すると、突然父親の形相が変わって、見知らぬ人のような顔で僕にむかってくる。

知人のことも父親のことも、自分にも思い当たることだ。言葉の表面だけが巧みだったり、ささいなことで怒ったり。反省して自分を変えようと考えながら道を歩いていると、貨車のような屋根のない車両がやってきて、人がぎっしりと乗っているなかに連れ込まれてしまう。

気づいた時には、回り中は敵だらけで、自分の武器も通用しない。ぼこぼこにやられそうになるが、なんとか鍵のかかっていない大きな家のなかに逃げ込むことができた。そこにはある家族が住んでいるが、眠っている様子の娘さんが実は特殊能力をもっている。彼女の助力を得れば、僕は敵に攻撃を加えることができるだろう。

最後は戦闘シーン。浮遊しながら襲ってくる敵に対して、僕はさかんにナイフやフォークのような金属性の武器を叩き込むが、敵はそれを平気で身体に吸収してさほどのダメージを与えることができない・・・

 

※年末年始休みの間、あまり人にもあわず現実感覚が薄れているせいか、ふだんよりずっと多く夢を見ているような気がする。

 

元乃隅神社と諸星大二郎

萩の近くでは、元乃隅(もとのすみ)神社が、観光スポットとして、いつの間にか有名になっている。写真を見ると確かに魅力的なロケーションなので、二日目のメインの立ち寄り先に選んだ。

1955年の創建という新しい神社だが、白狐のお告げによるという稲荷社で、ここでも日本の神社システムの柔軟さはいかんなく発揮されている。外国の放送局で取り上げられたことで、近年有名になったようだ。

国道からはかなり入り込んだところにある日本海に面した神社は、初詣の影響もあってか多くの参詣者(観光客)がいた。実際に目の当たりにしてみると、想像を超えるダイナミックな地形に、うねうねと下る赤い鳥居の群れがよく映えており、なるほどと思わせる景観だった。

鳥居の先の断崖の上は、広場のように開けており、神を迎え入れる磐座(いわくら)のようだ。その突端では、日本海の荒波が吹き上がる「龍宮の潮吹」を見ることができる。少し離れた海には、巨大な台形の岩が、神のための踏み台のように控えている。創建は新しくとも、神を祀るのにまったくふさわしいと思われる場所なのだ。

ちなみに、僕は35年前の社員旅行で、「龍宮の潮吹」を見た記憶がある。神社の方はまったく印象に残っていないが、たくさんの鳥居が建てられたのは近年のことなのかもしれない。

この神社を見て、諸星大二郎の作品を思い出したので、帰ってから調べてみた。海に向って鳥居が並び立つというところは「海竜祭の夜」の舞台がよく似ている。しかし、これはひなびた孤島でのお祭りの話だ。海ではなく、町はずれの鳥居が主役の話だが、地方の観光地化がはらんだ問題を描いている「闇の客人」とも響きあうところがある。

いずれも、アンソロジーにも取り上げられる名作だ。元乃隅神社の余韻とともに、じっくり読みなおしてみたい。

 

家族旅行と松陰神社

年末にバタバタとホテルを予約して、元日から一泊二日で家族旅行にでかける。家族4人で泊りがけのドライブに出かけるのは、ほとんど10年ぶりだ。長男の高校合格が決まって、そのお祝いもかねて津和野に行ったのが最後だった。それ以降は、子どもたちも自分たちの生活が中心になって、自然と家族主体の行動からは遠ざかっていったのだ。そもそもこの間は、帰省以外に旅行する余裕がなかったのかもしれない。

行きの車の中や観光地でも、妻が一番はしゃいでいた。僕も長男に運転をまかせてだいぶ楽ができた。もう本当に最後かもしれないが、こうした機会が得られたことを、感謝しないといけないと思う。

偶然予約できたホテルは、萩の老舗ホテルだった。萩城址に近い浜辺に数軒ホテルが並んでいるのだが、その中の一軒に、新入社員の頃、社員旅行で宿泊した記憶がある。たまたま入社した会社で北九州支社に配属にならなかったら、そして会社を辞めたあともこの土地で暮らす決断をしなければ、この同じ浜辺に泊まることもなかっただろう。

元日なので、松陰神社に初詣をする。松下村塾で有名な場所だが、吉田松陰を祀る神社ができていて、そこに大勢の人が当たり前に初詣していることに驚く。日本の神社というシステムは、実に融通無碍だ。大勢の神様以外も、有名人も動物も神様になれる。勧請という方法で、いくらでも特定の神様の出張所を増やすこともできる。

近くの東光寺に寄る。ここには立派な禅宗様の仏殿がある。禅宗でも黄檗宗の建物なので、武骨で中国風なイメージはあるが、大きく翼を広げたような二重屋根や、広々として背の高い内部空間に、しっかりと禅宗様の魂はこもっている。

夕方萩の武家屋敷の跡を一人で歩いた。幕末の著名人のゆかりの場所があちこちにあって、この小さな地方都市が日本の近代化において果たした役割に、不思議な気持ちにとらわれる。いろいろ説明はつくのだろうが、根本のところでは、歴史にも偶然という要素が強く働いているのだろう。

 

年末の一日

晦日になってようやく時間がとれたので、小倉の黄金市場にでかける。「なんもかんもたいへん」のおじさんに年末のあいさつをするためだ。

モノレールを降りて、黄金市場の入り口に近づくと、意外なことにいつもより人通りが多い。寿司屋の前には、ビニールでくるんだ大きな鉢が重ねられており、肉やの店先では、若い人たちが総出で鶏肉を揚げている。もちろんシャッターも目立つが、年末は市場にも特別な需要があるみたいだ。

シャッターを半分だけ開けて、路上に商品をならべただけのおじさんの「店」もいつもより品ぞろえが豊富で、しめ縄も売られている。おじさんの前にしゃがんで話していると、腰の曲がったおばあさんたちの顔が、地べたの野菜をのぞきこんでくる。おじさんはすかさず声をかけるが、ふつうの店にはない距離感だ。これが商売繁盛の秘密なのかもしれない。

85歳のおじさんはあいかわらず元気そうだが、少し前にめまいがして寝込んだという。そういわれてみると、あの軽快な口上を口ずさんでいない。体調のせいでなければいいのにと思う。

市場をあとにして、国道の向かい側の町並みを歩く。明日の初詣の準備万端という感じの、妙に活気のある小社を街角に見つける。狭い境内には、達者な書体の文政4年の庚申塔もあった。このあたりは、僕が若いころ住んでいた町だ。

連続監禁殺人事件の舞台となった小さなマンションが、入居者もなく廃墟のように建っている。一回の喫茶店も閉店したままだ。路地を抜けると、僕の昔のアパートまで50メートルもないくらい。この喫茶店に入り浸った日常の思い出と、全国を震撼させた事件の記憶とが結びつかずに、やはり呆然としてしまう。

 駅前の本屋で来年の読書会の課題図書を一冊買って、今年はにぎやかな大晦日の我が家に帰る。

 

 

高学歴ニートにおごる金はない

次男には、子どもの頃から不思議な才能が有って、家にあるおもちゃを組み合わせて、自分で新しい遊びのルールを思いついたりした。そんなとき、おとなしい長男は、4歳年下の弟の考えた遊びに喜んで加わっていた。

中学の時の特別支援学級の担任に久し振りに家族で会いに行ったとき、先生から、ドローンって昔ワタル君が考えていたやつじゃないの、と真顔で言われたことがある。ドローンが実用化される以前に、小さなヘリコプターにカメラを付けて飛ばすことを真剣に考えていたそうなのだ。

進学や就職のことでは、次男のことは、両親で手探りでサポートしてきた。友人関係や結婚、生活のことではまだまだ家族で知恵を絞らないといけないだろう。けれども、今年成人を迎えて、生き方の芯においては、親がかなわないくらいしっかりしていると感じられるようになった。ちょっと頑固すぎるくらいに。

就職して以来、年末か年始に一度、次男を迎えに行くついでに職場に手土産をもって家族であいさつするようにしている。今年で3回目だから、次男もちょっと照れながらも、ずいぶん職場の人間の顔になったような気がする。

その帰りの車中で聞いた話。

長男が転職のために家に戻っているので、家族の会話もだいぶ増えた。懐具合の厳しい長男が、高額の貯金を誇る次男に冗談でおごってほしいと言ったときに返したのが、標題のセリフだ。相変わらず、短文・単語での反射神経には目を見張るものがある。

笑って受け流していたという長男も、どうして、びっくりするほど大人になった。僕も最低限のアドバイスはしたけれども、実際に会ってみると、その先に目を向けているのがよくわかった。もう大丈夫。どうしても次男の陰に隠れて上手にサポートできずに気をもんできたけれども、ようやく安心できる。

こうなると、面倒をみないといけないのは、なにより自分自身のことだと気づく。あちこちへばっているし、先も短い。しかし、子育てで培った経験と手法を検証する素材としてこれに勝るものはないだろう。

 

 

銀杏のホウキ

高村光太郎の詩「冬が来た」の中に、銀杏の木も箒になった、という表現がある。読書会で読んでいて、これがよくわからないという感想があった。冬になって、銀杏の黄葉が落ちつくして、残った枝がまるで竹ぼうきのように見えるということだろう。

僕には抵抗のない比喩なのだが、思い返してみると、この詩を中学校の教科書で読んでいたためだと思う。言葉の意味にうるさい渡辺ゲンゾウ先生の国語の授業だったから、さぞかしていねいにこの比喩の意味を頭にたたきこまれたにちがいない。

大井に近い里山のふもとに、一本の銀杏の木がある。大きな木ではないのだが、ため池の縁の斜面に立っているから、遠くからでもよく目立つのだ。周囲の紅葉から少し遅れて、全部の葉が黄色に染まると、常緑樹の暗い緑から浮き上がって本当にきれいだ。毎年、それを楽しんで見ていたのだが、今年は新しい発見があった。

12月に入って、葉が落ちつくすと、幹と枝は、ぼおっとまるいホウキの先のようにかすんで見える。しかし落ちた黄葉が根もとの斜面をそめて、黄色いテーブルクロスをかけたように鮮やかなのだ。

黄葉は木を美しく飾ったあと、今度は地面を敷きつめられる。その両方を時間差で楽しむことができるロケーションは、めったにないだろう。大井川歩きの楽しみがまた一つ増えた。

 

「すべての瑣事はみな一大事となり/又組織となる」

詩歌を読む読書会で、高村光太郎(1883-1956)の処女詩集『道程』(1914)を読んだ。ひと昔の前の評論では、日本近代詩の傑作詩集みたいな言葉が躍っているが、今普通に読むと、詩として受け取るのはけっこうきつい。会の主宰も「つまらなかった」ともらしていたが、僕も読書会がなければ最後まで読み切ることはできなかったと思う。

ただ、「秋の祈」をこよなく愛する人間としては、「秋の祈」へと結晶する精神の荒々しい遍歴の記録として読むと、それなりに読みごたえがある。日本人や日本文化の矮小さを卑下し、芸術や恋愛へのあこがれをテコにして、西洋人と並び立つ存在を目指そうとする詩人の精神は、過剰なまでに近代を範型としている。

「常に蝉脱し、常に更新しなければならない/戦闘の開始はまづ頑迷な私の破壊である」(「戦闘」から)

一方、あらゆる矛盾と対立を取り払い、強烈な自我や主観を大いなる自然のもとに包摂させようとする東洋的な理想も強くあって、この記事のタイトルに引用した詩句を含む「万有と共に踊る」は、その直截的な表現となっている。あらゆる有限の断片が、主役として無限の組織に連なるという清沢満之の「万物一体論」や「有機組織論」を彷彿とさせるような哲学的な詩句だ。

近代と伝統。この矛盾をはらんだ精神の緊張を、卓抜な比喩を使い、深い祈りとともに一挙に形象化させたところが、「秋の祈」の名作たるゆえんだろう。

 

クレープの味

妻から聞いた話。

金曜日の夜は、次男は一駅前で降りて、ショッピングモールの中で夕食をとり、整骨院でマッサージを受けてリラックスする。僕が忘年会だったので、長男の運転でモールの次男を迎えに行き、3人分のクレープを買って戻ったそうだ。

テーブルを囲んで、親子でクレープを食べる。大人になった長男と次男が目の前に並んで、おいしい、おいしいとクレープをほおばる。

子どもたちが小学生の頃は、これが見慣れた風景だった。今では、テーブルのまわりを、新しく家族になった猫の九太郎が歩き回る。480円のクレープで、とてもしあわせを感じたという。

こんなことができるのも、長男が転職を考えて家に戻ったためだろう。社会人になって、一回ごつんと頭をたたかれて、長男もだいぶカドがとれた。次男は、相変わらずマイペースでがんこだけど、すなおでやさしい。母親も、前みたいに頭ごなしに言わないように気をつかっているようだ。

本当は、どんな一日もかけがえのないものなのだろううが、「家族」をやり直せている今は、奇跡のような時間なのだろう。

 

落とし物シンドローム

妻が彫金教室の帰り、道具や作品をつめたキャリーバックを無くしたと青くなっている。博多駅前広場でイルミネーションを見て、ケーキを買って、駅ビルのエスカレーターに乗っているとき、ふと、キャリーバックを引いていないことに気づいたのだという。中には、20年くらいコツコツ作り続けている思い出の作品や、高価な材料、今までのノートなどがある。

駅前広場で写真を撮ったときか、ケーキ屋で会計をしたときに、バックから手を放している。あわてて思い当たる場所に戻ったが、影も形も無かった。ちょうどクリスマスシーズンで、見物客や観光客がごった返す場所だ。駅ビルや警察署にも落とし物の届け出がなかったから、後日出てくることはないとあきらめムードになった。

それから三日たって、遠方の警察署から連絡があった。なんとバスの中に置き忘れていたので、バスの終点の営業所が警察に届けてくれたのだ。

妻がなんでも老化のせいにして不可抗力みたいなことを言うから、実体験の必要からいくらか記憶力の勉強をした僕は、こう説明した。

年齢とともにまず弱くなるのが、次の行動に備えて一時的に必要な内容を心の中に留めておくワーキングメモリーだ。これは誰も同じだから、悲観することじゃない。外出先では身体から絶対に持ち物を放さないとか、席を立つとき周囲を必ず確認するとか、ルールを決めて習慣化すれば、落とし物や忘れ物の対策になる。

実際、5年ほど前、職場が変わったばかりの時、頻繁に物忘れによる失敗が起きて、自分がどうにかなったんじゃないかと思えた時があった。その時の手帳のカレンダーには、失敗の内容がずらっと書き込まれている。

やがて自然に失敗が収まったから、おそらく失敗のパターンを自覚して、それを補うように習慣を作り替えたのだと思う。

キャリーバッグを取り戻してほっとした日の夜、僕は一人でスーパーに出かけて買い物をした。家に帰ると、おせちの具材をつめこんだ袋が無くなっている。まさか台の上に置き去りにすることはないから、車に積んだあと、油断して鍵をかけずに追加の買い物に戻った2,3分の間に盗まれたのだろう。高価なおせちの具材の袋だけを盗むとはかなり手慣れた犯人だ。

しかし、翌朝、念のためスーパーに確認すると、台の上の普通の忘れ物としてお店に回収されていた。担当の店員さんいわく、「とにかく、忘れ物は多いんですよ。そのまま置いてあるから、何のために買い物に来たのだろうと思ってしまうくらいです」 

一言もございません。

 

ハイイロゲンゴロウの昇天

今年、十何年かぶりかで、ゲンゴロウを飼った。その前は、50年前の小学生の時にさかのぼる。

今年は、ウスイロシマゲンゴロウという、初めての種類を見つけたのがきっかけだった。8月13日のことだ。ウスイロは、小さなオタマジャクシを与えたときなど、ハイイロゲンゴロウに負けないくらいのどう猛さを見せてくれたのだが、一月後の9月13日には帰らぬ虫となった。

残った二匹のハイイロは、玄関先のビンの中で、えさの乾燥イトミミズや川エビによる水質の悪化や、飼い主の管理の怠慢にも耐えながら生き続け、11月に一匹を失ったものの、もう一匹はしぶとく生き延びている。

ネットで見ると冬越しも可能だというので楽しみにしていたが、前日にちょっと様子がおかしく水面に浮かんでいたので、指先でつつくと、気を取り直したようにあわてて泳ぎだした。それが今朝は、前羽を広げて、ひっくり返って浮かんでいる。クリスマスの日に完全に天に召された状態だ。

毎年、街道脇の苗代田にわらわらと発生し、悪条件の中で子孫を残しているハイイロゲンゴロウの生命力にはあらためて驚嘆した。僕は個人的に「ハイイロゲンゴロウ最強説」を唱えているのだが、他のゲンゴロウばかりか他の昆虫とも、何か生きる力においてレベルが数段勝っている気がするのだ。

来年は冬越しの条件を研究して、その生態に迫ってみたい。