大井川通信

大井川あたりの事ども

車の販売店の担当が変わる

僕が今乗っているのは、人生で5台目の車だ。以前の上司で、80台以上車を乗り換えたという人がいたが、昔の感覚で言えば、年齢の割にずいぶん少ない台数ということになるだろう。だだ車に対する価値観もずいぶん変わり、今の若い人たちは車を欲しがらなくなった。都会と地方とではまったく事情も違う。

はじめの2台は中古、3台目からは新車の小型車になったが、ほぼ壊れるまで乗るので10年くらいは持つ。姉の仕事の関係で日産車に乗り始めて、それが続いている。

今回、長く担当をしてくれた人から、遠方の店に転勤になったと連絡があった。店長への栄転なので目出たいが、それ以上にこれでもう日産車から足が洗えるのが嬉しかった。10年に一度の大きな買い物でも、長い付き合いの担当者を差し置いて、他社の車を買う勇気がない。日産は不祥事続きで、車種も少ないけれども、まああきらめていた。

車検の手続きで、新しい担当者にあってみると、前の人とは違い、老連な営業マンという感じ。えらいオジサンだと思ったが、僕より一回り若かった。それで、対応のモードをまったく変えてみることにした。あとくされなく、気楽に冗談全開で。

かつて、高級車のローレルの販売店にいたと聞くと、「さすがにどこか上品だ」と持ち上げる。前の担当者がやめて日産から抜け出せたとほっとしたので、あなたとは仲良くなれない、と軽口をたたく。いつかはクラウンと思っていたのに、人生の最後に2台同じコンパクトカー「ノート」が続いたのを嘆き、だから2台目の今の車の「メダリスト」というエンブレムが、自分にとっていかに重要なのかを力説する。

すると、担当者は、「私はメダリストと聞くと、ローレルを思い出すんですよ」と、かつての高級車のグレード名だったことを引き合いに出して、調子を合わせる。

なかなかの手練れだ。やれやれ、この調子だとまた日産車を買う羽目になってしまう。

 

 

登記を為すに非ざれば対抗することを得ず

「不動産に関する物権の得喪及び変更は登記法の定める所に従い其登記を為すに非ざれば之を以て第三者に対抗することを得ず」

 

改正前の民放177条は、全文をあげるとこんな条文だった。実際は旧仮名遣いでカタカナ表記だから、さらに読みにくくなる。今では、民法全体が現代語で書き改められているはずだ。

僕は、法学部を卒業したが、多少熱心に勉強したのは民法くらいで、その中で物権変動の部分については、2年生のゼミでレポートを書いたので、いくらか詳しく研究した記憶がある。(それだけ、というのは情けない)

土地や建物の売買では、契約で、つまり買い手と売り手の意思表示によって、所有権は移転する。しかし、売り手が、第三者にその不動産を二重に譲渡してしまった時が問題になる。この場合に勝敗を決するのが、登記の手続きの有無だというのが、この177条の趣旨だ。

この時、第三者が善意(事情を知らない)である必要があるのかとか、相続や時効取得による所有権の移転にも登記が必要なのかとか、様々なケースに対応できる条文解釈が必要になってくる。僕は、レポートのためや、その後の試験のために、そんな細々した理屈を頭に入れた。

今回、両親が亡くなり、実家を処分することになって、はじめて法務局に出向いて、実家に関する登記簿を確認してみた。実は、今まで登記の有無など考えたこともなかったのだが、手持ちの書類から推測すると登記がない可能性が出てきたのだ。

土地は、もともと父方の伯父の所有であり、伯父の敷地の端に家を建てている事情は以前からわかっていた。法的には「使用貸借」だから、借地人としての権利は何もない。立退料をもらうこともできないし、家の撤去費用すらこちらもちであることは覚悟していた。

ただ撤去が物理的に難しい等の事情もあって、最終的に従兄に家を譲ることになったのは、母親の生前の意志でもあったから、よかったのだと思う。行政書士の友人の力を借りて、あとくされのないように無償譲渡の契約書も用意した。

登記簿を見ると、予想通り、実家は登記がされてなかった。従兄が相続した土地の上には、従兄が相続した伯父の家の登記があるだけだった。

実際には、無登記建物というのは珍しくはないらしい。しかし、登記簿上そこになんの記録もないのを見て、なんだか淋しかった。実家での僕たちの暮らしが、何者にも「対抗できない」ものだったような気がしたのだ。

同時に、実家を手放すことの無念さや後ろめたさが消えて、仕方のないことだと思えるようにもなった。かつての次男なら「したたがない」というだろう。僕にはまだ、前を向いて歩いていく時間があるのだから。

 

ビブリオバトル初参戦

地元のグループが主催するビブリオバトルの講座に初参加して、気づいたことをいくつか。やはり、この方法は、読書についての経験も趣味嗜好もさまざまな人たちを、横一線に同じ場所に立たせるという点ですぐれたものだと思う。

読書好きというのは、ともすればマニアックな趣味の世界に没頭しがちだし、普通に本について話し合うとなると、どうしてもそちら側に話題がひっぱられ、他の人は置き去りにされがちだ。

5分間のプレゼンという要素が加わると、まるで本の知識のない人でも、プレゼンの部分で年季の入った読書好きにも十分対抗できることになる。最終的に参加者の総意でチャンプ本が選ばれるのだから、独りよがりの読書家も、他の参加者の気持ちをくみとらざるをえなくなる。

チャンプ本の選定基準が「一番読みたくなった本」というのも、やはり絶妙だ。僕の紹介した本は、チャンプ本にはなれなかったが、別に僕個人やプレゼンを否定されたわけでも、本そのものを否定されたわけではない、と素直に了解できるのだ。なんというか、「ベストセラー」には無理だったかな、という感覚。

僕が一票を投じた本がチャンプ本になって、さっそくそれを書店で購入した。以前から気になっていた本だったが、バトラーのプレゼンで背中をおされたのだ。

実際に前にたってみて実感したのは、協議時間に手が挙がって質問されると、話をよく聞いていてもらっていたのがわかって、うれしいということ。

市の支援事業で、立派なチラシが出回っていたけれども、関係者の知り合い以外の参加は僕だけだったようだ。図書館にとって連携協力すべき取組のはずだけれども、学校図書館を含む地域の図書館の動きがにぶいのかな、とは司書資格の勉強中の者としての感想だ。

 

『セミ』(ショーン・タン)のビブリオバトル紹介編

地元でビブリオバトルの入門講座に参加したら、その場でビブリオバトルの実演をすることになった。生まれて初めての経験だ。一冊お気に入りの本を持参する指示があったので、予想はつくことだったけれども。

そこで僕は、5分でこんな話をした。終了後に、講座に参加した何人かの子どもたちが、結末を読ませてほしいとやってきたので、まあ成功だったのだろう。

 

僕は、今年の夏、セミの声を聞き分けるのに夢中でした。みなさんは、セミを何種類くらい知っていますか。僕が今年近くの神社の森で発見したのは、ヒメハルゼミという珍しいセミです。

ところで、セミの幼虫の期間は、種類によって異なるのですが、クマゼミはだいたい7年といわれています。だから、東日本大震災の年の夏に鳴いていたクマゼミの子どもが、今年の夏に鳴いているという計算になります。外国には、幼虫で17年を過ごすセミもいるそうです。

セミの幼虫は夏に羽化して成虫になりますが、そのあと一週間とか十日しか生きられないとよくいわれますよね。だから、セミには「かわいそう」とか「はかない」というイメージがあるのでしょう。

僕は、自分の家の庭でクマゼミの抜け殻や成虫の死骸の調査をしました。すると抜け殻はほぼ7月の間に見つかり、成虫の死骸は8月の間に見つかることがわかりました。このことからでも、成虫の寿命が一か月程度あることはわかります。実際に最近の研究でもそれは確かめられているようです。

一か月くらい生きられるなら、他の虫と比べてもそんなに短いわけではないでしょう。地中で、木の根から水分を吸いながらゆっくりと成長する落ち着いた生活と、夏の陽光のもとで、仲間たちと空中を飛び交うダイナミックな生活。全く違った二つの人生を、一生のうちに味わえるのですから、「かわいそう」というより、むしろ「うらやましい」生き物だと思えるようになりました。

さて、今日、僕が紹介したいのは、現代の人気絵本作家ショーン・タンの最新作『セミ』です。(表紙をみせて)主人公はこのセミなのですが、ちょっと「きもい」でしょう。

彼は、スーツを着て、こんなふうにオフィスで働いていたり、上司から怒られたり、人間の同僚からいじめられたりします。同じ勤め人として、本当に身につまされるところです。こんな彼に、はたしてどんな結末が訪れるのでしょうか。そのヒントは、今僕が話したセミの一生の物語の中にあります。

ごく短い絵本ですが、感動のラストが待ってます。ぜひ手に取ってみてください。

 

 

東京経済大学の思い出

僕の知っているのは、今から40年近く前の東京経済大学だ。

東経大は、東京郊外の小規模な私立大学だけれども、個性的で気鋭の研究者がそろっていた。フランス現代思想今村仁司先生と、当時人気学者だった栗本慎一郎と経済人類学でライバル関係にあった山崎カヲル先生。栗本も東経大の来る話もあったけれども、明治大学に決まったので蹴られたと、今村先生から聞いた記憶がある。

社会学者で、のちに様々な著作を発表することになる桜井哲夫先生。リベラルな歴史研究で名高い色川大吉や、哲学者の荒川幾男、マルクス主義国家論で著名だった柴田高好もまだ現役の教員だったと思う。

僕は、都心のマンモス大学の早稲田の学生だったけれども、大学の後半は、自宅の隣町にある東経大のキャンパスで時間を過ごすことが多くなった。今村先生のゼミと講義、山崎先生や桜井先生の講義を、僕は一円の授業料も払わずに、モグリで受けた。

そして、あの居心地のいい図書館。ハケの斜面にそって建つその建物が、図書館建築で有名な鬼頭梓の設計になるものだと知ったのは、後になってからだ。(図書館界において知らぬもののない日野市立中央図書館の設計者が鬼頭梓東経大図書館は現在は改装してホールとなっている)

ハケの下の駐輪場に自転車をとめ、図書館脇の雑木林の坂をのぼったのが、ほんの昨日のように思い返される。今の僕に影響を与えているのは、母校以上に東経大だろう。

しかし、ネットなどでは「偏差値」によるくだらない序列意識やレッテルはりを見ることが多い。だから僕は、機会あるごとに東経大の良さを声を大にして言い立てたくなってしまう。あの頃の恩返しのつもりで。

 

京都精華大学セット

大井の古民家カフェ村チャコの小川さんの息子さんが、京都精華大学に進学することが決まったらしい。ジュンノスケ君のことは、中学生の頃からよく知っているから、お祝いに何か贈りたい。それで、手持ちの蔵書から、この大学の先生の本をセレクトして渡そうと思った。

精華を選んだきっかけの一つは、白井聡が教えていることのようだ。それで、まず、彼の『未完のレーニン』。ベストセラーになった『永続敗戦論』は僕には肌に合わなくて、ずいぶん辛辣なレポートを読書会でしたことはあるけれど、レーニン論は面白かった。

次は、佐々木中の『足ふみ留めて』。佐々木中が登場した時には、とんでもない書き手が現れたと思った。ただ講演会を聞いたときに、芝居がかった表情で虚勢をはる姿に文筆家の楽屋裏を見せられたような気がしてゲンナリした記憶がある。

ジュンノスケ君が面白かったという内田樹からは、『知に働けば蔵が建つ』。内田はどの本も、あざといくらいに面白く鋭い。

現役の教員ではないけれども、京都精華大学のイメージがある上野千鶴子からは、『ナショナリズムジェンダー』。精華時代の初期の本がいいのだろうが、懐かしくて手放せない。

何よりマンガ学部板橋しゅうほう先生の本を贈りたいところなのだろうけれども、コレクションを精選して、『アイ・シティ』と『セブンブリッジ』しか手元になく、とてもゆずるわけにはいかない。ただ、『アイ・シティ』はぜひ読んでほしいと伝えよう。

僕の貧しい経験を振り返ると、これらの本(『アイ・シティ』はのぞく)を読んだからといって、何かの役に立つわけでも、それで人生が豊かになるわけでもなかった。ただジュンノスケ君には、きっと別のやり方、別の生き方が開かれているだろう。若者に幸多いことを祈る。

 

 

 

『螢川・泥の河』 宮本輝 1977

読書会の課題図書で、宮本輝(1947-)を初めて読む。

『泥の河』は、昭和30年の大阪を舞台にし、『螢川』は、昭和37年の富山を舞台にしている。いずれの作品でも、作者にとって地名と年号を明記することは大切で抜かすことのできないことだったのだろう。戦争の傷跡が残り、貧しさと自然と共同体とが生活に絡みついていた時代の記録だ。

読み終わって振り返ると、二作とも心に残るいい作品と思えたのだが、読み始めははかなりてこずった。『泥の河』では、8歳の主人公信雄の心象風景が、重厚な文学的レトリックで描かれているというギャップが気になったからだ。『螢川』では、多少描写もあっさりしていて、14歳の主人公竜夫の内面と釣り合いがとれた感じになっている。

両作品の舞台は泥の川と螢川(いたち川)である。生活の原形みたいなものを描こうとすると、やはり川というものが重要なのだろう。今でも旧集落を歩くと、人々の生活がもともと川を軸にして成り立っているのに気づく。

物語のクライマックスには、それぞれ「お化け鯉」と「螢の乱舞」という過剰な生命のイメージが登場する。川の流れという日常が時に生み出す超自然的な存在が、人々の生活を語りうるものとするための仕掛けとして重要になっている。

『螢川』で、重竜の弔いで訪問した先妻の春枝が、駅のホームで見送る竜夫に「おばちゃんのできることはなんでもしてあげる。また逢おうねぇ」と、前夫の子どもへの複雑な心情を爆発させる場面は心に刺さった。どの登場人物も、くっきりした輪郭を身にまとって生きているのだ。

 

 

イノシシの伯父さんへ

伯父さんとお別れしてから、もう20年近くが経とうとしています。昨年に母が亡くなり、国立の家で暮らしていた二組の夫婦の全員が、この世を去ったことになります。二家族の子どもたちも、全員還暦前後となりました。

姉も実家を従兄にゆずることを決め、僕もようやく本籍を九州に移す気持ちになれました。幸い、従兄たちとも関係は良好で、そんな話もスムースにまとまりそうです。Kさんとは今でも、演劇や文学の話を何時間でもできる間柄ですし、おそらくおじさんが一番気がかりなはずのAさんとも、これからもできるだけ会う機会をつくろうと思っています。

戦中派である伯父さんたちが活躍した時代から、世の中はさらに加速度をつけて変わっていっています。ネットやスマホなどの情報技術の発展が目覚ましく、それとともに世の中の価値観も大きく変貌しています。

伯父さんの時代に輝かしかった「左翼」は、「サヨク」を通り越して、今では「パヨク」としてからかいや忌避の対象におちぶれてしまいました。とはいえ、人間の善意が、理念やイデオロギーとは別の形を自由にとることができる時代になったといえなくもありません。

旧時代の人間である僕も、一昨年からブログをはじめて、日常のこまごました出来事を記録にとどめるようにしています。伯父さんについてのエピソードも、いただいた短歌のことや、戦争中の林尹夫とのかかわりなど、いくつか書かせていただきました。

たしか詩人でシベリヤ抑留の体験者である石原吉郎の本にこんなエピソードがありました。シベリヤに送られる兵士たちが、なんとか自分の名前を残そうと、壁に書きつけたり、別れる人たちに記憶させたりしていたと。

僕も、この世界から離れる時をぼんやり意識するようになって、ネットという突然現れた巨大で空虚な壁面に、自分(たち)が生きた痕跡を書き込んでおきたいと思うようになったのかもしれません。

ところで、今回お話したかったのは他でもありません。20年以上前、僕の住む町でイノシシが住宅街を走ったり、電車にぶつかって止めたりしたことが全国ニュースになり、伯父さんがそれをとても面白がったことがありましたね。それ以来、僕の家族の間では、あなたをイノシシの伯父さんと呼ぶようになりました。根っからの江戸っ子である伯父さんは、イノシシが住宅街に出没する田舎というのがそれだけでおかしかったのでしょう。

今日の全国ニュースで、イノシシが国立駅の近くを駆け抜ける映像が流れていました。アーバンイノシシなんて言葉まで作られたようですが、おそらくこの世界は深部から大きな変更を強いられているような気がします。このニュースを知ったら、伯父さんは、いったいどんな顔をするでしょうか。

僕は、この世界の先行きをもう少しだけ見届けてから、伯父さんを訪ねようと思います。それでは。

 

次男の子育て(高校入学)

夏の一次試験、冬の二次試験と倍率3倍の試験をかいくぐって、特別支援学校高等部の一般就労を目指すクラスに合格した。二次試験では面接対策がぬけていたにもかかわらず、こわもての先生の質問にも臆せず単語で切り返す様子は、後から何度も笑い話の種になった。

 「君は、休みの日には何をしていますか?」「インドア派です」

 「君は、本校で何を学びたいですか?」「技術です」

合格には妻と二人で大喜びしたものの、高校は寮生活だ。初めて次男を学校に送って別れたときには、お互い何ともしんみりした気持ちになった。手のかかる子どもだっただけに、家に戻る土日を心待ちにする日が続く。ちょうど長男が大学生活を満喫して家に寄り付かなくなった時期だったから、平日の家は火が消えたようにさみしくなった。

選抜組だけに級友はなかなか優秀だ。10人のクラスを参観していて、ワタルが決してクラスメイトの上位にいないことに気づかされた。先生が、テキストを開くように指示をだす。何かに気を取られたワタルだけが、指示に気づかない。昔からのウィークポイントだ。

それともう一つ、同年代の友人とのコミュニケーションが苦手という点も、学校と寮との濃密な人間関係では弱みとなった。大人とのコミュニケーションは、面接の時のようにめっぽう得意なのだが、言葉が遅れて仲間の輪の中に入りそびれたワタルは、友人たちには委縮してしまう。

 そんなわけで、高校では中学校での優等生ぶりが影を潜めてしまったのは、ちょっと残念だった。

 

 

 

次男の子育て(中学校時代)

いよいよワタルもブレザーの制服を着て、中学に通うようになる。

小学校までは、1キロ弱だったが、中学までは2キロ以上の道のりで、自転車通学が認められていた。長男は幼稚園時代から自転車を乗り回していたが、ワタルは友だちと遊びまわる機会もなかったから、自転車に乗れなかった。小学5年生の頃から、近所の広い公園に連れて行って、少しづつ練習させるようにした。初めの頃は、乗りなれない固い姿勢で自転車を走らせるワタルの姿を、心配して見送っていた記憶がある。

特別支援学級の一年生と二年生はマルノ先生、三年生はカワグチ先生の担任で、本当に親身に育ててもらったと思う。言葉についての独特のセンスはこのころから芽を出して、「私流枕草子」の作品では、全校配布の校長だよりで取り上げられたりした。

「春はここちよい/草むらで寝/ウグイスが鳴き/みだれ桜あはれなり・・・」

高学年になると、少人数の学級に対する責任感や、先生への気遣い、後輩へのリーダーシップが発揮されるようになったのは驚いた。小学生の時はまるでなかったものだ。学級の後輩女子から慕われたりして、第二のモテキとなった。

もちろん、交流学級では母親の書いた手紙が教材になったりして、いろいろなトラブルやあつれきは抱えていたはずだが、中学はワタルがかなり優等生の時代だった。

卒業式の日には、式のあとの教室で、学級でただ一人の卒業生であるワタルを取り囲んで、関わりのあった10人ほどの先生から、一言ずつあたたかい言葉をいただく。ワタルも立派にお礼の言葉をかえす。

家族全員でその場に立ち会って、思い出深い区切りの一日となった。子どもへの思いやりと熱意を持った無名の先生たちの尊さを思い知った日でもあった。