大井川通信

大井川あたりの事ども

世代について

現代社会はどこに向かうか』の読書会が終了。やはり、この本だけを対象にすると、著者の議論は突っ込みどころ満載という感じで、参加者の心を深くとらえるものとはならなかったようだ。見田宗介の全盛期を知る者としては、ちょっとつらい。

再読するといっそう、加齢や老いによる性急さ、乱暴さが目につく。20年前の『現代社会の理論』では、現代の情報化・消費化社会の転回のためには、情報や消費の「本義」に立ち返った構想や仕掛けが必要とされていた。ところが、本著では、生産力の増大によって人々の基本的生存条件が確保され「合理化」の圧力から解放されさえすれば、即理想的な「高原期」の精神を得ることができるように読めてしまうところがある。これでは、衣食足りて礼節を知ることでしかないし、生産関係の変更だけで理想社会が到来するとした素朴なマルクス主義と変わらない。

ただ、著者の巨視的な視点とは別に、80年代以降、世代間の意識の距離が急速に消失しているという統計データの紹介は面白かった。

僕は「新人類世代」(1960年前後生まれ)に当たるのだが、親が「戦中派」だったため、壁のように厚く価値観の隔たりを感じていた。また、市民運動や読書会などで、一回りほど上の団塊の世代(1947-1949年生まれ)や全共闘世代の先輩たちとかかわることが多く、考えや肌合いの違いやそのことへの無理解に戸惑うことが多かった。ところが、しだいに若い世代と関わる機会が増えても、上の世代に対するほどのギャップを感じることがなく、現在にいたっている。

確かに自分の子どもたちの世代との違いを感じることはある。しかしこの違いは、自分が経験してきた時代の変化を考慮して、十分想定し共感できる内容なのだ。一方、上の世代からは、そんなものわかりのいい視線を向けられた記憶はなく、やはりそこには経験の大きな断層があったような気がする。

数年前、自分が若い頃から書いてきた「作文」をピックアップして、手持ちの資料としてまとめたことがある。作文だけは書き継いできたことに開き直って、「作文的思考」という表題をつけたのだが、その時、我ながら驚いたのは、80年代の初めの自分の文章が、今の感覚でも違和感なく読めるということだった。もちろん自分に成長がないということでもあるが、背景となる時代の価値観に大きな変動がなかったということだろう。

ところで、僕が長く加わっている読書会は、もともと評論家(今は哲学者になってしまったが)竹田青嗣の愛読者たちの集まりが母胎になっている。早いものでもう30年以上前になるが、定期的に竹田さんや加藤典洋さんを招いた集まりに僕も何度か参加をした。その竹田さんがまだデビューして間もない80年代半ば、新聞の論壇時評で取り上げて評価したのが、見田宗介さんだった。まだ無名だった竹田さんにとって、見田さんの読みは大きな励ましとなったはずだ。その後の竹田さんの執筆活動が、初期の読書会メンバーたちを鼓舞し、その後メンバーは入れ替わりつつ、30年にわたって本を読み継いできている。

この会で見田さんを読んで、こんなふうに世代について考えるというのも感慨深い。