いつの間にか、フェルメール(1632-1675)が大人気で、展覧会のチケットに日時指定があるのには驚いた。10年前に、やはり上野でフェルメールの作品を集めた展覧会があったときも、ここまでではなかった気がする。
僕がフェルメールの名前を知ったのは、浅田彰がさっそうと論壇にデビューしてまもなく出版した『ヘルメスの音楽』(1985)という芸術論のエッセイ集でだった。フェルメールの他、デルボーやベーコンなど、当時全く聞いたことのない画家の作品をあきれるほど自在に論じる文章に、この若き俊英にはまったく敵わないと思った記憶がある。
今回の展覧会を評判につられて観覧したのだが、やはり良かった。今回は様式の変遷を解説した小林頼子著『フェルメール』の文庫版をあわせて読んだので、いっそう理解が進んだ気がする。この本を参考にして、フェルメール作品の各時代の特徴を、「光」と「事物」の関係から取り出すと、おおざっぱにこんなふうになるだろう。
〈50年代〉は、光が実体化されて、事物の上で凝集した光の粒が遊ぶ。〈60年代〉は、柔和な光が事物を包み、なじみあう。〈70年代〉では、生硬な光によって陰影表現がくっきりと単純化される。
今回の出品作でいうと、「牛乳を注ぐ女」は〈50年代〉の圧倒的な傑作。「真珠の首飾りの女」を含むぼやっと柔らかな色調の〈60年代〉の作品が数作あり、〈70年代〉の「手紙を書く婦人と召使」が、端正だが冷たい印象で異彩を放っていた。小林さんは後世の模作ではないかと疑うが、とても小さな「赤い帽子の女」での大胆な光の描法には目を奪われた。
フェルメールが17世紀の人だということにあらためて驚く。作品は、歴史や社会的文脈から切り離されて、無時間的に独立して存在しているかのように見える。描法や様式の進化すらも自立的で論理的だ。フェルメールの小ぶりで数少ない絵にひきこまれる人が多いのもうなずける気がした。