大井川通信

大井川あたりの事ども

働くことについて(その3 暁の超特急)

【暁の超特急】

小学校の頃、年に一度、大きなグラウンドを借り切った会社の運動会があっていろいろな景品をもらうのが楽しみだった。また実業団の都市対抗野球に出場するときには、後楽園に観戦にでかけて派手な応援に目をみはった。カワイガッキなどという子どもには聞きなれない対戦相手の名前が耳に残っている。父には特別に愛社精神のようなものは感じられなかったが、社員の家族たちも楽しませよう、という考えが会社側にははっきりしていたと思う。

平木信二は、会社が経営危機を脱して間もない昭和30年代初めに、会社に陸上競技部と野球部をつくり、実業団のスポーツ王国としての地位を築いていく。陸上では、昭和33年から7年連続、全日本の実業団選手権で総合優勝を飾った。駅伝大会の記録を見ると、当時西日本の雄だった八幡製鉄所と優勝を争っていたのがわかる。平木は、全国に散らばる直営支店の社員たちに会社への信頼と誇りをもたせ、消費者に社名を知ってもらうためにスポーツの振興に目をつけたのだという。また、それだけでなく、自身もスポーツ好きで「スポーツの盛んな国は栄える」という信念から、採算を度外視しても選手強化に力を入れた。昭和39年の東京オリンピックには14名の代表選手を送り出すなど、東京開催に大いに貢献したのだが、その頃がリッカーミシンという会社のピークだったようだ。

昭和40年代を迎え、ミシンの販売が頭打ちになると、他の家電製品を扱うなど多角化にのりだして行く。父からも、いつからか電子レンジの製造の話を聞くようになった。昭和45年には万国博覧会で、ワコールとともにパビリオンを出したというような話題もあったが、僕が知るようになった頃以降のリッカーは、かつての勢いを次第に失っていく姿だったのだろう。

リッカー陸上部の全盛期に監督に迎えられていたのが、戦前のロサンゼルスオリンピックの100メートル6位で、「暁の超特急」という異名をとった吉岡隆徳(たかのり)だった。吉岡は、当時女子短距離のエース依田郁子とともにオリンピックに臨んだのち、リッカーを退社して国立にある東京女子体育大学の教員をしていた。一橋大学のグラウンドで学生を指導する吉岡を見かけて、あれが暁の超特急だと父から教えられた記憶がある。

昭和59年のリッカーの倒産のあと、中央線から見える立川工場はしばらくそのままになっていたが、今では携帯会社のNTTドコモの巨大なビルが取って代わっている。リッカーミシンは戦後復興期、高度成長期という時代の寵児のような企業だったのだろう。時代は新しい花形産業とともに前に進んでいく。リッカーミシンについて考えると、僕には忘れかけていた養父を思い出すような甘く苦い感情がよみがえる。

 

▼参考文献 『夢、未だ尽きず 平木信二と吉岡隆徳』 辺見じゅん 1998