大井川通信

大井川あたりの事ども

働くことについて(その2 あるカタログ)

【あるカタログ】

玉乃井プロジェクトの資料の展示コーナーには、玉乃井旅館のパンフレット等の営業の資料の他に、安部さんの家族のアルバムや記念の品物などが並べられている。その中に安部さんのお母さんが手元に置いていたような、日常の生活の書類を整理したクリアーファイルがあった。それをめくっているうちに、丁寧に保存された何十年か前のリッカーミシンのカタログが目に留まった。もしお母さん愛用のミシンのカタログだとしたら、そのミシンの製造には僕の父がかかわっていたかもしれない。

僕の父親は、リッカーミシンの立川工場に勤めていた。実家のあった国立は東京の新興住宅地で、成績の良い友人たちの父親は、新聞記者や弁護士、税理士、芸術家など花形の職業が多かった。もちろん、まだ貧しい時代でいろいろな家庭があったのだから、卑屈に思うというほどではなかったけれど、けっして立派とはいえない家構えとともに、父の職業については多少居心地の悪い思いをしていたのも事実だった。

リッカーミシンの創業者平木信二は、明治43年(1910年)京都に生まれ、不遇の少年時代を送りながら、昭和12年に会計事務所を立ち上げ、理化学工業の創設を経て、昭和23年(1948年)にリッカーミシン株式会社を発足させる。平木は、終戦詔勅を聞いたとき、「さあ平和産業だ」と叫んだという。終戦後、若い女性の間で洋裁ブームが起こり、月々500円の分割払いで24ヵ月後にミシンを渡すという「イージーペイメント」方式で売り上げを伸ばしていく。その後昭和29年に不渡りを出すという危機を迎えるが、直営支店を倍増させるなどの拡大路線で乗り越える。ミシンはこのころ日本の輸出のスター的存在にのしあがり、昭和34年には世界第一位のミシン製造国となった。

父はその昭和34年頃立川工場に就職し、リッカーが昭和59年に倒産する直前までそこで働いていた。僕は昭和36年生まれで大学卒業が昭和59年だから、自活できるようになるまで父の労働を介してリッカーミシンに扶養されていたことになる。そのころの父は僕の記憶にあるかぎり、それほど勤勉な働き手ではなかった。父の言いつけで書き始めた小学校2年生の日記には、およそ一ヶ月おきに「ひさしぶりにおとうさんがかいしゃをやすんだ」というフレーズが登場する。働き者の母は、他のことでは父親を立てていたが、休みが多いことには露骨に嫌な顔をした。「ひさしぶりに」という子どもらしくない表現は、家族に対する父のいいわけじみた言葉をそのまま書き写したものなのだろう。もっともそれ以外は、仕事の予定など几帳面にメモして残業や休日出勤もこなし、酒も遊びもやらずに趣味は読書という生真面目な人間だった。毎日きまって午後5時15分に帰宅して居間に居座られることは、子供心には気詰まりだったけれど。

 

 ▼参考文献 『夢、未だ尽きず 平木信二と吉岡隆徳』 辺見じゅん 1998