大井川通信

大井川あたりの事ども

作文的思考(続き)

4年くらい前のことだ。安部さんとやっていた勉強会で、「作文的思考」というテーマで報告をした。そのレジュメの初めの文章。

「安部さんから不意に、僕が昔書いた文章について切り出された。どんなものであれ書くことによって思考は紡がれるし、いったん刻まれた思考の痕跡は消えることなく読み手を待っているのだろう。そういえば以前、そんなたどたどしい営みを、開き直って『作文的思考』と自称していたような気がする。手元にある古ぼけた作文の山から一部を抜き出して、時代順に並べてみた」

中学3年の時のものからおよそ40年の間に書いた作文から、25本の文章を選び、目次に一行コメントをつけたレジュメは、A4用紙で50枚くらいになった。自分なりに何かをつかんだという手ごたえのある文章、つまり思考の運動量の多い文章を選んだ。せいぜいミニコミに載せた文章や、読書会のレジュメ、手紙、私的なメモばかりで、「作文」という名前がふさわしい。

こんなことができたのも、僕が自分の書いた文章を比較的几帳面に取っておく習慣があるからだ。だらしなく、整理ができない人間なのに不思議な気がするが、学生時代の友人関君が、自分の書いたものをていねいにファイリングしているのを見て感銘を受けた記憶があるから、関君の影響なのだと思っている。

その時のレジュメを見返すと、作文ごしにその時々の実際の生活や精神のもちようがはっきり思い出されて懐かしい。自分としては、自らの健闘をたたえたい気持ちがするが、40年の時間の成果としては貧しすぎるものだろう。「作文的思考」というのは、なるほど開き直りなのだ。

あのとき、こうしてまとめたのは本当によかったと思う。こんな機会がなければいずれ散逸してしまうだろうし、再読の機会もなかったかもしれない。貧しいなら貧しいなりに、自分がしてきたことを自覚することもできた。

僕が、ブログを書き始めたのは、この勉強会の報告の翌月からだった。直接のきっかけは別にあったけれども、「作文」を書き続けるという思いは、どこかにあったのかもしれない。

 

作文的思考

僕は、以前から、自分が書いているものが「作文」であると考えてきた。学校の授業で書かされた、あれだ。源流をたどれば「生活つづり方」みたいなものになるのだろうけれども、ふつうに作文というのがしっくりくる。

学校の授業で、作文がとくに得意だったわけではなかった。文章は下手だし、短いものでも意味が通じるものを書くのに、とても苦労する。それでも、今でもこうして書き続けているのは、それが僕が考えるための必要な方法であるからだと思う。

日々の暮らしの中で、気づいたり発見したりすることは、けっこうよくある。おしゃべりだから、それを口にすることは多いけれど、要領よく話すのは得意ではない。何度も同じネタを話しながら、少しづつ物事が明確になっていく。

話す機会がない発見だと、作文を書いてまとめるしかないことになる。だから、生活の全方位に渡って、作文の内容はひろがっていく。得意だったり、知識があったりする分野よりも、よくわからない、どう考えていいかわからない事態に直面した場合に、「作文」は本領を発揮する。

こんなことを書いていいのだろうか、とちゅうちょした内容の方が、自分にとっては、書いてよかったと思える「作文」になることが多い気がする。言葉の働きがそれだけ大きく、自由になるからだ。

こんなふうにして、まだしばらくは、「作文」を書きながら「作文」とともに「作文」を支えにして生きていくのだろうと思う。

 

 

『目羅博士』再論

乱歩の『目羅博士』についてもう一言。

元ネタといわれる二編の小説を読んでみて、この模倣をテーマにした小説が、いかに模倣されたかという問題に興味を持つ人がけっこういることに気づいた。最近では、研究論文まで書かれていて、ネットで読むこともできる。

たいていは、実際の影響関係を調査に基づいて推測したり、あるいは「模倣」という概念をめぐる考察だったりして、『目羅博士』という作品のもつ独特の魅力について、正面から論じているものは見当たらない。

どんなに建物の形が似ているとしても、道のこちら側がにぎやかな旅館であって、道の反対側が人気のない古い屋敷であるという、役割がまったく違う建物同士で、こちら側とあちら側を「同じもの」と誤認させることが果たしてできるだろうか。

その屋敷には、その町で誰もが知る奇怪な名物婆さんが住んでいる。その正面で不可解な自死が行われた。真っ先に疑われるのは、その婆さんに決まっている。犯罪の実態は、人間の本性を利用した知的なトリックで証拠が残らないものでも、何か妖術を使ったと思われたおしまいだ。

19世紀の読者は『見えない眼』に別のリアリティを読み込んでいたのかもしれないが、今の読者はそれを容易に理解することはできないだろう。

目羅博士の犯罪の舞台は、オフィスが入る雑居ビルという無性格な建物が立ち並ぶ街路だ。こちらのビルとあちらのビルが全く同じオフィスビルだという相似の中で、あちらの自分とこちらの自分との取り違えがおこるのだ。

しかもそこに降り注ぐ月光の弱い光は、ビル同士の色彩やディテールの微妙な違いを消し去り、無機的な同質性を強調する。

真犯人の目羅博士は、都会の片隅でひっそりと開業する眼科医であり、彼自身、都会では匿名の存在なのだ。無機的で同質的な街路で向き合った匿名の者同士の間で、模倣という原始の力が現代の都市に回復する。

乱歩の『目羅博士』はこの消息を、あますところなく描いている。

 

 

 

生き物の春

庭仕事をしている妻が、人懐こい可愛い小鳥を見つけたという。お腹がオレンジで、背中が黒で、白い紋があって・・・ジョウビタキにちがいない。基本的に人なれしているジョウビタキの中にも、びっくりするくらい人懐こい鳥がいたりする。

でも、ジョウビタキなら冬場の縄張りを捨てて、小さなグループに集まって、海の向こうの大陸に帰っていかなければならない頃だ。この時期、故郷での繁殖を待ちきれずに、細い美しい声でさえずるのを聞いたこともある。

別の日、出勤のため玄関を出ると、隣家の庭からウグイスのさえずりが聞こえた。自宅に訪れる鳥たちとの出会いは格別だ。カササギヤマガライソヒヨドリの姿を思い出す。

また別の日、職場近くの海岸の熱い砂の上で、ひっくりかえっているコガネムシを見つけた。足を宙に向けてゆっくりと動かしている姿を見ていたら、家にいる猫の九太郎のことを思い出した。この虫も生きたいのだろう。指先でつまんで、木陰の草むらのなかにそっと投げ入れる。

仕事から帰ると、今日、九太郎が蝶々を食べたのだという。部屋の中に紛れ込んできた黒い蝶を、窓枠のところで捕まえて、ペロッと美味しそうに食べてしまったというのだ。考えてみれば、いくら肉食といっても、体重3キロばかりの小柄な猫にとって、ネズミやカエルなど大型のえさが都合よく見つかるものでもないだろう。野生での主食は昆虫なのかもしれない。キャットフードより美味しかったかな。

目羅博士vs.いたち婆

目羅博士の試練はつづき、蜘蛛女との対決の次は、「いたち婆」というあだ名の奇怪な老婆が相手となる。いたち婆が登場するのは、エルクマン・シャトリアンの短編『見えない眼』(1857)である。

前回の対決作品エーヴェルス『蜘蛛』(1908)よりさらに半世紀も前の作品だが、『蜘蛛』で指摘した『目羅博士』(1931)との相違点が、今回はことごとく似ている。何より、相手と同じ衣裳を着せた人形を使っての対決という物語の最大の山場がまったくそっくりなのだ。

江戸川乱歩が小説のネタとして当時すでに翻訳もあった『見えない眼』ではなく『蜘蛛』を挙げたのは勘違いによるものと好意的に解釈する人もいるようだが、これだけ似ていると、むしろ意図して避けたとしか思えない。

19世紀のヨーロッパの田舎町での事件を、20世紀日本の都会の出来事にして描きなおした翻案作品といってもいいくらいだ。目羅博士、万事休すかと思うが、どうやらそうでもないようだ。小説の出来はあきらかに目羅博士の方が優れている。

人が模倣の欲望によって操られるのは、偶然相似形を作り出すような近代都市の無機的な街並みこそがふさわしい。田舎町で誰もが知る奇人の老婆が行う知的な犯罪は不可解だが、都会の片隅の眼科医の犯行なら説得力がある。何より語り手自体の存在を、月光の魔力によって宙に浮かせてしまう手法が鮮やかだ。

とはいえ、目羅博士がいたち婆の生まれ変わりなのは明らかだから、同一人物のため対決とはならず勝負なしとしよう。

 

BAND-MAIDに激ハマリする(その2)

2月の終わりに、このバンドをネットの動画で見つけて以来、相変わらず、自由時間の大半を、バンドの動画を見たり、音源を聞いたりすることに費やしている。アルバムも現物を二枚買った。

一週間くらい前、バンドの公式サイトでこんな告知を見つけた。参加するはずだった音楽フェスがコロナウィルスの影響で中止になったので、本来の開催日時に予定のセットリストの演奏を全世界緊急生配信すると。

見てみたいけれど、自分にはハードルが高そうだ。見よう見まねでネットを使っているけれど、とても使いこなせておらず、配信という言葉にも仕組みにも弱い。しかし情熱というのは恐ろしいもので、それでもなんとか見る手はずを整えて、どきどきしながら始まるのを待った。開始直前には、配信を待っている人の表示が5千人を超えたが、海外にファンが多いバンドとしては、そこまで大きな数字ではないだろう。

演奏は5曲で20分くらい。都内のスタジオでの演奏で、スマホを使っての配信だから、動画も音も荒いけれど、それが生々しくていい。メイド服の新衣裳にも感激する。配信の最後に、メンバーから、手書きの英文で数時間後に動画の公式チャンネルを見るように連絡があった。

指定の時間にのぞくと、2月のライブでの映像がアップされていて、その再生回数がみるみるうちに増えていく。動画のコメント欄は、相変わらず9割以上が英語をはじめとする外国語だ。共感したいという気持ちは恐ろしいもので、ずいぶん英文コメントに目がなじんでしまった。

普通のミュージックビデオについている英文コメントの基本パターンはこんな感じ。俺は60代のオールドロッカーだ。70年代からハードロックを聞いてきたが、彼女たちは本物だ。ロックは死んでいない。俺は50代のヤングボーイだが、まったくそのとおり。現在地球上で最高のハードロックバンドだ。こんなコメントがずらりと並ぶ。

世界も日本も熱心なファンはおじさんのようだ。すると僕も世界同時現象に巻き込まれたことになるが、それがかなり小さな規模で(「小さな物語」として)自生的に実現しているのが、ネットの力なのだろう。

ということで、彼らとともに、来月発売となるライブビデオを心待ちすることにしよう。ネットも音楽も苦手なはずなのに、生きていると人生何があるかわからない。

 

 

葬儀というもの

この年齢となると、いろいろな関係で葬儀に立ち会うことが多くなる。葬儀の間には、死者のことや、葬儀というものについて、思いを巡らすことになる。

信仰が薄くなっている時代には、葬儀というものの形式性が、どうしても気になってしまう。おそらく、人の死というとんでもない出来事に対して、とても釣り合うような何かができる装置ではないのだ。そのことにうすうす気づきながら、どうしようもなくて、なすすべなく、残された者は葬儀という社会的な形式を受け入れ、それで欠落を穴埋めしようとする。

しかしそれだけではない気がする。僕は、人の死に立ち会うたびに、ほとんど共通の儀礼によってそれに向かいあったきた。だから、この儀礼の形式には、僕が個々に死と向き合ってきた経験の内実が血肉化されているのだ。少なくとも、その多くの経験を呼びさますきっかけとなりうるはずだ。

それは僕ばかりではない。参列者それぞれが、死者を見送るというそれぞれの経験の内実を、葬儀の形式によって自然に取り戻し、それらを共同の感情として場所にみたすことになる。たとえ故人を良く知らず義理で参加して談笑を交わしているような参列者ですら、葬儀の形式に触れることによって、自分の肉親を見送った時の経験が呼び起こされるはずだ。

葬儀自体が、僧侶の読経や焼香の手順自体が、何事かをなしうるわけではない。それはまったくの形式に過ぎない。しかし、形式であるからこそ、生者の側の思いと経験をその器に満たすことができるのだろう。何かがなしえるとしたら、この満たされた集合的な思いと経験の力の方だ。

 

 

 

父の誕生日

父の誕生日ということで、東京の姉にメールをする。

命日というのは、降ってわいた災害みたいなもので、当人にはあずかり知らない日付だ。死ぬことによって確定する日を、あらかじめ生きているうちに知ることはできないい。それならば、生前本人が大切に思っていて、家族と共有した思い出のある誕生日の方が、ずっと重要なのではないか、と思うようになった。

1924年生まれで、生きていれば96歳。来月には亡くなって14年になる。吉本隆明と同じ年の生まれであることを、わかりやすい目印にしていたのだが、最近、安部公房の誕生日と十日ほどしか違わないことに気づいた。安部公房は、3月7日生まれ。敗戦を迎えたのが、21歳という戦中派だ。

僕が子どもの頃の大人たちは、戦中派が主役だった。彼らによって標準的な大人のイメージがつくられた。彼らが、当たり前の大人だと思っていた。しかし、今になって、戦中派がいっせいにこの世から退場してしまい、そのあとに続く焼け跡世代も現役から引退してしまった世の中を見ると、戦中派というのは、特別な経験をした特異な世代だったことがよくわかる。

戦争へと突き進む騒乱の時代に育ち、軍国主義イデオロギーのもとに多くは兵士となり、知人友人の死と国土の崩壊に立ち会い、全く新しい平和主義のイデオロギーのもとに経済の高度成長を支え、近代化の果ての消費社会を作り出すという世代の経験は、空前絶後のものといえるのではないか。

戦中派の経験について考えることが、彼らに育てられた僕の、大げさに言えば責任のようなものだと、最近考えるようになった。それは「戦争体験」を継承するということよりも、もう少し幅の広いことになるのだと思う。

 

 

ある哲学カフェにて

もう、4、5年ばかり前になるが、同じ街の古い街道沿いにあるカフェで哲学の勉強会にしばらく参加していたことがあった。

主宰は、ドイツ観念論の研究者で、予備校講師や大学講師をやりながら市民運動を続けている尊敬できる人だった。僕が参加し始めたときは、カントの平和論を読んでいて、それが終わるとヘーゲルの『法の哲学』になった。

主宰の目的は、市民運動家の交流の場をつくるということにもあったのだと思う。反原発の訴訟の当事者もいて、いろいろな行政闘争の話題も多く、僕などは少し場違いな感じもあった。ただ当時は、「大井川歩き」を始めたばかりの時で、反時代的な取組みとして自分なりの手ごたえに自信をもっていたから、平気な顔で議論に参加していたと思う。

貴重な勉強の場だったけれども、会の共通の了解事項であるような政治的な雰囲気になじめずに、自然と足が遠のくようになった。地元に十分な資産をもち、年の半分は海外暮らしをしている老人が、口をきわて日本の政治や社会をののしるような議論に、とても同調することができなかったのだ。どのような暮らしをしていようが、ある政治的意見をもつかもたないかだけが重要なのが、政治的な場所というものだろう。

その会に僕より少し年長の夫婦が参加していた。哲学や市民運動の知識などに詳しいわけではなかったので、リベラルな感覚と知的な好奇心でメンバーに加わっているようだった。奥さんの方が積極的な感じだった。

僕がその会に足が遠のいた頃、全くの偶然でだんなさんの方と仕事上でかかわりをもっようになった。そのだんなさんが、昨年夏に奥さんの看病をするために仕事をやめるという話を聞いていたが、実際の病状はわからなかった。

一昨日、突然の奥さんの訃報を聞いて、葬儀に参列した。

地元の民生委員を二期務めていたというから、地域のくらしに実直に根を持っていた人なのだろう。だんなさんや息子さんの言葉から、家族から信頼され、尊敬されていた様子がうかがえた。どんな気持ちで、あの勉強会に参加していたのだろうか。葬儀の席で、久しぶりに当時のメンバーと顔を合わせた。

 

伊東忠太と徳永庸

安部正弘氏の手記には、大正10年(1921年)に日本海観戦記念事業を思い立ち、翌年には、建築界の権威伊東忠太博士に設計を依頼したことが記されている。伊東忠太(1867-1954)は、スケールの大きな建築史家、建築家として知られる。明治時代に「建築」という訳語を定着させてのも、伊東忠太と言われている。

本当だろうか。しかしこれは、忠太を紹介する一般書に掲載されている建築作品一覧で、あっけなく確認がとれてしまった。「1922年日本海海戦記念碑(中止)」の記述があったのだ。この記載のとおり、関東大震災による事業の中断によって、忠太の設計は実現することはなかった。

その後の経費の都合と大砲据え付けの追加計画によって、安部正弘氏は、伊東忠太の了解を経て、設計を、忠太の早稲田での教え子でもあった徳永庸らに変更し、最後には正弘氏の希望を加えて「戦艦司令塔型」が完成したのだという。

津屋崎にある日本海海戦紀念碑の来歴を調べる中で、僕は、伊東忠太と徳永庸という二人の建築家に出会った。しかし、この二人には、僕には意外なつながりがあったのだ。

伊東忠太とのつながりは、すぐに思い浮かぶものだ。忠太の代表作の一つは、大震災後東京郊外に移転した一橋大学の兼松講堂で、国立キャンパス全体が、忠太流のデザインで統一されていた。大学は僕の実家から数百メートルの場所にあり、奇怪な妖怪の刻まれた様式建築群が建ちならぶキャンパスが僕の遊び場だったのだ。

徳永庸の足跡を早稲田の図書館で調べる中で、何より驚いたのが、晩年の徳永の住居が国立市にあって、僕がそのあたりの場所を良く知っていたことだった。彼は自邸を「雑花園」と名付け、晩年、内藤多仲(「塔博士」として有名)と今和次郎(「考現学」の提唱者)という二人の恩師を招いている。昭和37年5月6日、僕が国立の実家で生まれて半年ばかりの頃だ。その時の今和次郎の色紙には、略画とともにこんな文句が書かれている。

「楽しみに老若なし 徳永さんの庭にて 今和次郎